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教育学部で学ぶ
 
 
 教育学部で学ぶというのはどういうことなのか,考えてみましょう。考えるための素材として,群馬大学教育学部のパンフレットに私が書いた文章を紹介しますので,ご覧ください。
 
 
● 教育学部はどんなところか? ●
 
● 教育の役割,教員の役割 ●
 
● 教育学部は,教育の意義はどこにあるのかを考え,学校と教師のあるべき姿を考える学部です。 ●
 
 

 
 
 
教育学部はどんなところか?
 
「群馬大学教育学部案内」1998年版〜2001年版に掲載
 
 
 高校生が大学への進学を考えるとき,大学と学部を選ぶことになる。学部といえば,理学部,工学部,文学部,経済学部,法学部,医学部などなど。教育学部もそのひとつだ。高校進学時にくらべて選択肢が格段に増える。でも,それぞれの学部がどんなところなのかは,なかなかわかりにくい。
 
 教育学部はというと,卒業後に教員になるための学部というイメージがあり,もちろんそれは間違っていない。けれども,このイメージだけでは教育学部をわかったことにはならない。
 
 考えてみてほしい。なぜ,教員になるために大学で勉強しなければならないのだろうか?
 
 いいかえるとこういうことだ。どの教科でも満点を取れる中学生ならば,中学校や小学校の教員がつとまるだろうか? つとまらないとすれば,なぜだろうか?
 
 どんなに成績優秀な中学生・高校生でも,そのままでは教員としてつとまらない。そのような前提のもとに,大学での勉強を必要条件とする教員免許制度が成り立っているし,教育学部は存在する。
 
 ここでの勉強のひとつは教える内容についてであり,もうひとつは教え方についてである。
 
 まず,あることがらをほかの人に教えるには,自らがよく理解していなければならない。ひとつのことを教えるには,その背後にあるいろいろなことをわかっている必要がある。大学で十分に学んでこそ,子どもたちに何かを教えることができるのだ。
 
 次に,教育というのは相手のあることだということを確認しておこう。自分がよくわかっているからといって,相手(子ども)にうまく伝えられるとは限らない。これは単なる技術の問題ではない。どう教えるかというのは,それを教えることに子どもが生きていく上で何か意味があるのかということに遡る問題であり,同時に人間関係をどう築くかの問題でもある。教育学,すなわち教育を学ぶというのは,人間が生きる意味を考え,人間と人間との関係について学ぶことである。それを抜きにして,教えることなどできるはずがない。
 
 つけ加えるならば,「いい先生」とはどんな先生かということがある。人それぞれ,これまで生きてきた中で「いい先生」に出会っていることだろう。では,その「いい先生」はどんな人だったろうか? おそらく,人間としての魅力を感じさせる人だったのではないだろうか? 子どもの立場からすれば,教員は人間的魅力を備えた人であってほしい。これは「いい先生」の条件だ。
 
 もちろん,人間的魅力というものは,大学を出たかどうかに関係ない。また,身につけようと思って身につくものでもない。でも,充実した大学生活を送るならば,その人の輝きは増すに違いない。
 
 さて,教員にならない人にとっては,教育学部は意味のないところだろうか? おそらく,そうではない。まず,教員にならないとしても親になる人は多い。子どもの親として家庭教育に携わることになるし,学校教育にも無関心ではいられない。また,親にならないとしても,ひとりの市民=社会構成員として教育についての認識は必要なはずだ。教育は次代の市民を生み出し,社会のありようを規定するからである。そしてなによりも,教育は人々の幸福にかかわっているからである。
 
 それに,教員になるために必要な勉強が前述のようなものだとすれば,そのような勉強をすることは人間としての成長につながり,どのような職業に就いても発揮できる実力を培うことになるだろう。
 
*  *  *
 
 はじめのところで「大学と学部を選ぶ」と書いた。最近,「選択の自由」が強調され,大学についても受験生が消費者として商品(大学・学部)を選択することの重要性が論じられている。
 
 だが,ここには落とし穴がある。商品を選択するのは「お客さん」でしかない。学生は大学の「主人公」であり,「お客さん」であってはならない。だから,入学時の選択だけを強調するのは不適切だ。出発点としての選択は確かに大切だが,「主人公」としてどんな大学生活を送るかはもっと大切なことだ。例えば,授業がつまらないと感じたら,教員を質問責めにしてみよう。それでこそ「主人公」。そうすることで,授業はきっと面白くなる。
 
 教員の側からいえば,授業を聞いているだけの学生はつまらない。学生が教員に知的な刺激を与えてくれれば,それだけ授業にも熱が入るというものだ。もっとも,学生に刺激を与えて眠っている知性を呼び覚ますのが教員の役目だともいえるが。いずれにしても,授業は(ひいては大学は)人間どうしの相互関係の場であり,その相互関係の中で学生も教員も成長する。それが教育というものだろう。
 
 

 
 
 
教育の役割,教員の役割
 
「群馬大学教育学部案内」2003年版〜2005年版に掲載
 
 
 ある日の授業で学生に質問してみた。「教育の存在意義はどこにあるのだろう?」と。そして,こうつけ加えた。「あるものの存在意義を考えるには,『もしそれがなかったとすれば,どのような不都合があるか?』と想像してみるといい」と。
 
 私たちは,「あたりまえ」のように存在する事柄について,それが存在する意味など考えることはあまりない。教育もそうだ。学校があるのも,子どもたちがそこに通うのも,多くの人にはあまりにも「あたりまえ」のことだ。
 
 でも,「あたりまえ」のことも,あらためて考えてみる価値がある。教育にどのような存在意義があるのか確認することは,教育・学校の目指すべき姿を考える上で,大いに役に立つ。教育の存在意義というのは,教員となることを目指して教育学部で学んでいる学生はもちろん,いろいろな立場の人に考えてほしい問題だ。人間が,社会が教育を必要としているのなら,なおさらだ。
 
 さて,この文章を読んでいるあなたは,どう考えるだろうか? 教育の存在意義はどこにあるのだろう? もし教育がなかったとすれば,どのような不都合があるのだろう? 自らの経験に照らして考えてみてほしい。
 
 学生のひとりからは,こんな答が返ってきた。「『もし教育がなかったら』って考えてみたけれど,教育がないなんて考えられない」。つまり,こういうことだ。教育というのは学校教育だけではない。人が誰かに何かを伝えること,たとえば親が子に生きていく上で必要な事柄を伝えること,それも教育だ。だとすれば,「社会があれば必ず教育がある」というべきだろう。
 
 そう考えると,「もし教育がなかったとすれば」という仮定が成り立たないところにこそ,教育の存在意義を探る手がかりが隠されているのではないだろうか。その先は,また一人ひとりが考えてほしい。
 
*  *  *
 
 では,学校教育の存在意義はどうだろうか? 教育に存在意義があることを前提にして,それが学校という場で行なわれることの意味はどこにあるのか,という問題だ。
 
 これも授業で学生に尋ねてみた。ある学生は,こんな考えを述べた。「各教科の学習も大切だが,集団生活の中で人間関係の築き方を学ぶことはもっと大切だ」。
 
 「もっと大切」かどうかはともかくとして,教科の学習以外にも大切なことがあるというこの指摘は重要だ。教科の学習には,ほかの子どもがいなくても学べる,あるいは教員がいなくても本から学べる,といった面もあるからだ。それに対して人間関係は,ひとりきりでは学べない。
 
 でも,学校での生活は,教科を学ぶ時間のほかに人間関係を学ぶ時間があるわけではない。子どもたちは,授業時間を含めたすべての学校生活を通じて,人間関係を学んでいく。上で紹介した学生の考えも,このことをいっているのだろう。
 
 そうすると,次に考えるべきは,教科を学ぶことと人間関係を学ぶこととの関係だ。このふたつは,別々のことなのだろうか? 教科を学ぶ時間と人間関係を学ぶ時間とが分かれていないのは,ふたつのことが別々なのではなく,実はひとつのことだから,とは考えられないか?
 
 学校という場に子どもたちが集まってともに学ぶ。「ともに学ぶ」というのは,人間関係を築くプロセスであり,その中で教科の学びが深まっていく。意見を出しあいながら協力して学ぶ。ひとりではできないそのような学び方をつくることが,学校の役割だ。
 
 それでは,どうすれば子どもたちは「ともに学ぶ」ことができるだろうか? ひとつの教室で授業をするだけでは足りない。小手先の「授業テクニック」で解決する問題でもない。まさにここで,教員の力量が問われることになる。教員は,教科についての知識だけでつとまる職業ではない。教員には,各教科についての深い認識と人間についての深い理解が求められる。
 
 もちろん,教科の学習は,人間関係の築き方を学ぶための手段ではない。それぞれの教科にはそれぞれの学ぶ意味(存在意義)があるはずだ。でも,これは難問だ。
 
 たとえば,「外国に行くつもりはないから英語の勉強は必要ない」とか「2次方程式なんて使わないから勉強しても意味がない」といった疑問を,子どもはもつかもしれない。それにどうこたえるか。しかも,このような疑問は,理屈を説明しただけでは解消できない。その教科を学ぶ意味を子どもたちが実感としてつかめる授業ができるか? このことが教員には問われている。
 
*  *  *
 
 学校教育がかかえているこのような課題にどう立ち向かうか? そのことを,教員志望の学生やそうでない学生と,多様な視点を出し合ってともに考えていきたい。教育学部の授業をそういう場にしたい。私は,そう願っている。
 
 

 
 
 
教育学部は,教育の意義はどこにあるのかを考え,学校と教師のあるべき姿を考える学部です。
 
「群馬大学教育学部案内」2017年版〜2018年版に掲載
 
 
 高校生につきたい職業を聞くと「学校の先生」という答が多い,といいます。このページを開いているあなたも,そのひとりかもしれませんね。
 
 先生をめざす人には,ひとりひとり様々な動機やきっかけがあるでしょう。あなたはどうですか?
 
 自分の学校生活の中ですばらしい先生に出会い,「私も先生になりたい」と思うようになった人も多いことと思います。高校生くらいの年齢になると,「小さい子どもの相手をするのが好きだから,それを仕事にしたい」という人もいるでしょう。また,大好きな教科があってその教科にずっと関わっていきたいという人もいそうです。あるいは,問題が解けないでいる友だちに解き方を教えてあげた経験から,「勉強を教えるのって面白い」と感じて先生をめざしている人もいるかもしれません。
 
 ひとりひとりの動機やきっかけは様々ですが,共通点もありそうです。おそらくは,学校生活に関わる幸福な経験がもととなって先生になろうという思いが芽生えた人が,ほとんどなのではないでしょうか。けれども,「学校生活で思い出すのは不幸な経験ばかり」という人もいます。このことは,忘れずにいたいですね。 
 
 ところでみなさんは,小さいころから毎日のように先生の働く姿を見てきて,先生という職業をよく知っています。ただ,「よく知っている」といっても,「他の職業に比べれば」ということでしかありません。確かに,授業をする先生の姿も,生徒の相談に乗ってくれる先生の姿も,みなさんは知っています。けれどもその先に,まだ知らないこと,考えるべきことがあります。大学で,教育学部で学ぶべきことがあります。 
 
 たとえば,授業をするために,あるいは生徒の相談に乗るために,先生はどんな努力をしているでしょうか。先生になるために大学で学ぶ必要があるのはなぜでしょうか。面白い授業とはどんな授業でしょうか。子どもにとって,どんな先生が望ましいでしょうか。あなたが出会ったすばらしい先生は,どこがすばらしかったのでしょうか。私たちは成長の過程で,学校と先生から何を得てきたでしょうか。子どもたちの学校での経験から不幸な経験を減らし幸福な経験を増やすために,あなたに何ができるでしょうか。 
 
 これらは決まった正解のない問題です。でも,だからこそ考える価値があります。教育学部の学生として考えるべき問題であるだけでなく,卒業して先生になってからも考え続けるべき問題です。先生にならない人も,ともに考える意味のある問題です。私たち教育学部の教員も,ともに考えます。 
 
 「ぜひとも先生になりたい」というあなたは,どんな先生として生きていきたいですか? そのために何をしますか? 「先生という仕事も考えてみようかな」というあなたはどうですか? 
 
 群馬大学教育学部で,ともに考えましょう。 
 
 
 



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