2. キャプテン・クックの略歴

 まずは本稿で扱うツーリズムのテーマとなるキャプテン・クックの略歴についてふれておきたい。キャプテン・クックとして知られるジェームズ・クックは,1728年10月27日,ヨークシャーのマートンで農場労働者の子として生まれた。クックは初歩的な学校教育を受けただけで,グレート・エイトンの農場で父を助けて働いた。16歳で家を離れ,ステイズズの食料品雑貨商へ年季奉公に出て,そこで船員たちと知り合いになった。そして18歳の時,ホイットビーの船主のもとに置かれ,北海の石炭運搬船に乗り込む海の仕事に就いた。航海術を身につけた彼は,1755年,27歳でイギリス海軍に仕官する。フランスとの7年戦争の間,北米大西洋岸での測量調査が上官に認められ,その戦争終結後には,戦勝国として新たに獲得したニューファンドランドの測量に1763年から67年にかけて従事した。

 1768年には,金星の太陽面通過調査のための調査隊に選ばれ,初めての太平洋への航海に赴く。 8月26日にプリマスを出航。エンデバー号艦長として調査隊を率いてタヒチに着き,1769年 6月 3日に金星の観測に成功。さらにニュージーランド,オーストラリア東岸,ニューギニア南岸などを探検し,西回りに世界周航して1771年 7月12日に帰国。翌1772年 7月13日には,レゾリューション号とアドベンチャー号を率いて出航。3度にわたり南極圏を航海して南緯71度10分に到達。想像上の南方大陸テラ・アウストラリスの存在を否定した。そして太平洋の島々を訪れて,東回りに世界周航して1775年 7月30日に帰国。さらに翌1776年 7月12日にレゾリューション号とディスカバリー号を率いて出航。北米太平洋岸からヨーロッパに向かう北西航路の探索をめざし,ハワイ諸島を経て,ベーリング海峡に入り,北緯70度30分に到達。そして帆船が航行できるような北西航路は存在しないことを明らかにした。その後,補給のために引き返したハワイ島で,原住民との間で小競り合いが生じて,1779年 2月14日に殺害された。

3. エンデバー号の周航イベント

 エンデバー号は,クックの第一回世界周航の時に用いられた帆船である。この船はホイットビーで建造された築4年の石炭運搬船を改修したもので,砂浜での補修に都合のよい平底で,大きな貯蔵スペースをもち,長期航海に適したものであった。クックにとっても見習い水夫時代の航海で馴染んだものだった。この長さ約30m,幅約9mの帆船の複製を建造しようとする考えが具体化したのは,1988年,ヨーロッパからの入植 200年を記念したオーストラリアにおいてであった。オリジナルと複製の違いは,伝統的なエルム,オーク,トウヒではなく,複製にはオーストラリア原産の堅材やベイマツなどが使われていることである。それ以外は,伝統的な技法を活かし,オリジナルを忠実に複製した帆船である。

 紆余曲折をへて完成したエンデバー号の複製は,1994年にオーストラリアのフリマントルで就航した。オーストラリアとニュージーランドでの航海を終えた後,エンデバー号の複製は1996年10月16日,南アフリカ経由で,イギリスへ向けて出発した。クックの航海の時は90名を超える乗員があったが,今回の乗員は56名である。イギリスでの寄港地は,第1図に示したように,1997年 3月25日ロンドンのグリニッジを皮切りに,左回りでブリテン島を一周するよう選ばれている。そして再びボストン,ホイットビーに立ち寄った後,1998年 1月にプリマスからアメリカに旅立つ。この周航イベントはイギリスの国立海事博物館が共催しており,そのため博物館の所在地でもあるグリニッジが最初の寄港地となっているのであろう。

 各寄港地では,エンデバー号の複製の一般公開が行われた。エンデバー号に乗船すると,見学順路がうまく設定されており,要所にはガイドがいて,詳しい説明を聞くことができる。写真1は,ボストンで一般公開中のエンデバー号。写真2は,下甲板にある下級船員の居室兼食堂。就寝時には天井からハンモックをつるして休む。写真3は,居室兼食堂から船尾に向かう間の船室の状況。この上が高級船員の船室になっているため天井が低く,見学者は腰を落としつつ移動している。写真4は,船尾にあるグレート・キャビン。ここは艦長と自然科学者が共用した部屋で,複製の道具類が置かれている。中央の帽子をかぶった女性がガイドである。

写真1
 写真2
 写真3

  写真4

 乗船見学料は大人一人5ポンド(1000円余),一家族(大人二人・子ども三人)12.5ポンド(2600円余)と安くはない。ただし各地ともイベントは盛況であったようである。ボストンでの一般公開では,記念写真を撮る人であふれ,Tシャツなどのエンデバー号グッズの販売も活発であったし,ボストンとその周辺の観光PRや地場産品の展示即売が行われていた会場も賑わいをみせていた。

 クックの業績は,未知の海を航海しただけでなく,海上で暮らす乗組員の健康を維持する点でも大きく貢献した。帆船による長期航海が行われた時代には,壊血病が多くの船員の命を奪った。しかしクックは,正確な科学的な知識をもっていたわけではないが,ザウアークラウトや果物などでビタミンを補給することに気を配り,船内を清潔にし,船員の健康管理に力を注いだのである。こういったことが船内でガイドの口をとおして語られると,2年11カ月にわたる航海を,この小さな帆船と約90名の乗組員がやり遂げた困難さが実感できるのである。

 これが本物のもつ力であり,それゆえに人々が魅せられるのであろう。もちろん,このエンデバー号は当時ものではない。しかし,縮小模型よりも,航行不能な同寸大の複製よりも,本物に近いという点に意味が見いだされるのだろう。


  • 次の章へ
  • クック終焉の地(ハワイ島)に寄り道