3年後にまたやってきた大震災・新潟県中越沖地震
〜柏崎刈羽地域と原発を直撃〜

 

 2007年7月16日10時13分、新潟県中越沖を震源地にした震度6強の激しい揺れが、柏崎刈羽地域を襲いました。黒瓦の屋根を頂く古い家並みが無惨に倒壊し、傾き、穴ぼこ状態になり、ずり落ちた屋根、折れた柱がむき出しになっている様子などが繰り返しテレビ画面に映し出されました。すでに、2004年10月、小千谷市を中心とした大震災(「新潟県中越地震」)が、新潟県中越地域に発生し、甚大な被害をもたらしましたが、再びこの地は、震度6強の大地震(「新潟県中越沖地震」)に襲われました。

 今度は、小千谷市と長岡市に隣接する柏崎刈羽地域を中心とする中越地域が被害に遭いました。地震の規模はマグニチュード6.8、震源は、柏崎市沖約2キロで、深さは約17キロ、大陸側のプレート(岩板)の中で発生した内陸型の地震でした。

 その被害状況(2007年10月5日現在)は、死者11人、重軽傷者2,309人、家屋の全・半壊6,485世帯、一部損壊33,939世帯、公共施設その他の被害31,181棟、という甚大な被害となりました。

 とくに震源地に近い柏崎市中心街は、家屋の倒壊が深刻で、自宅にいた高齢者の方々がその下敷きになって亡くなりました。また地面に液状化現象が発生したために、道路や地面が波打ったり、亀裂が走ったり、陥没する被害に襲われました。経済的被害も甚大でした。新聞各紙によれば、ーー東本町二丁目振興会(えんま通り商店街)では、32軒のうち7軒が全壊し、高齢者だけで資金の借り入れができず廃業する商店も出ている。海水浴客で一番にぎわうときに地震があり、最盛期の8月15日までに5万7千人の宿泊キャンセルがあり、海水浴客も昨年の103万人から16万人に激減し、浜茶屋の平均売り上げが例年の1500万円の2-3割に過ぎず、経費も出なかった。地震から2カ月後、避難所は8月末ですべて閉鎖されたが、柏崎市、刈羽村、出雲崎町に計1,182戸の仮設住宅が建設され、約3,000人が生活している。柏崎市内では家屋を解体した後の更地が目立ち、住宅再建が今後の課題となっているが、再建修理の目処が立つ世帯はほぼ半数にとどまる。高齢者では資金繰りが困難で住宅の再建は絶望的な状況にある。ーーといった被害状況が報道されています。

 この甚大な被害をもたらした地震は、柏崎刈羽原子力発電所の北約10キロが震源だったため、被害は原発を中心にした半径8キロ圏内に集中しました。最近の新聞ではー国土地理院は、この地震で柏崎市周辺の西山丘陵が帯状に最大で15センチ隆起したと発表した。地震を起こした断層が、東京電力柏崎刈羽原子力発電所により近い陸側が浅いタイプである可能性が高まったとしている。地球観測衛星「だいち」の観測データを分析した結果、震央から約15キロ離れている西山丘陵の西側斜面が長さ約15キロ、幅約1.5キロにわたって最大で約15センチ隆起していた。また、震度6強が最大だった新潟県中越沖地震で、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の揺れが震度7だったことがわかった。京都大防災研究所の岩田知孝教授(強震動地震学)らが、原発に設置された地震計データをもとに計算した。ー−と報道されました。世界で初めて、原発を地震が襲ったのです。(写真は、柏崎刈羽原発)

 原発施設内部の道路は波打ち、地盤も沈下しました。内部には、放射能を含む炉水が洩れました。原発1号機(沸騰水型)では、原子炉内の機器が変形しました。原子炉からの蒸気を冷やす海水の地下放水路に、数十カ所のひびも見つかりました。すでに新潟県と柏崎市は、東京電力に対して、消防法に基づく緊急使用停止命令を発し、事実上の原発停止命令を出していました。東京電力による地域住民への放射能漏れなどの重大事故の知らせが、1週間も遅れるなど、重大事故の情報開示・説明責任などについて、東京電力と原発への不安と不信が高まりました。地元新聞には、「原子力発電所を受け入れた地域の住民だけにリスクを負わせ『電力は首都圏へ、リスクは地元で』では立地地域は浮かばれない」といった住民の声が掲載されました。今後の行方が注目されます。とりわけ、「地震大国日本」における今回の重大事故は、政府と電力会社に対して、原発見直しを火急の課題することを実証しました。

 原発の廃炉を求める声も広がっています。坂本龍一さんを中心にミュージシャンらが所属する任意団体「Artists'Power」はこのほど、新潟県中越沖地震でトラブルが相次いだ柏崎刈羽原発の廃炉を求めるネット署名運動を始めました。署名サイトは「Unplug Kashiwazaki-Kariwa/おやすみなさい、柏崎刈羽原発」。同原発の周辺に活断層があり、再び大きな地震が起これば重大な事故を起こしかねないと指摘し、「不安を無視して再稼働すれば、不安の連鎖を引き起こし、社会に必要な信頼を失わせるのでは」、として廃炉を求めています。賛同者リストにはSUGIZOさんや大貫妙子さん、テイ・トウワさんらミュージシャンのほか、作家の村上龍さんなども名を連ねています。関連リンク* UNPLUG KASHIWAZAKI-KARIWA

 泉田裕彦新潟県知事は、9月27日、県議会の代表質問に対し、地震で大きな被害を受けた東京電力柏崎刈羽原子力発電所について、今後の調査の推移次第で、「廃炉もあり得る」との考えを示しました。

 今回の大震災にあっても、被災地に対する政府の救済措置は、先進国ではきわめて冷たい行政のままですが、多くの人々や各種団体のボランティア活動、義捐金の提供は、長引く不況にもかかわらず活発に取り組まれ、被災地と住民に大きな励ましを与えています。こうした活動が継続することを祈っています。


〜小国町現地からのリポート〜

山 田 博 文

 地元の新聞社(新潟日報社)から、特別報道写真集として『新潟県中越地震』(2004年11月25日)が出版されましたので、ご紹介します。歴史的な大震災のリアルな現場が克明に伝わってきます。

中越大震災の被害状況は、すでに新聞などで報道されていますが、概略(2004年末現在)、以下の通りです。

 被害総額3兆円(うち1兆2000億円がインフラ関係、7000億円が住宅などの建築物、3000億円が農林水産関係、など)に達しました。

 住宅では、全壊2768棟、大規模半壊1452棟、半壊8426棟、一部損壊8万5664棟です。その他に、停電約30万戸、断水13万世帯、ガス停止5万6000戸でした。

 ●小国町在住者の震災体験ドキュメント

 以下の震災体験ドキュメントは、小国町上岩田在住で、「小国文化フォーラム」を主宰し、「小国文化」を編集、発行している高橋実氏から寄せられたドキュメントである。高橋さんは、若いときに、日本の代表的な文学賞の芥川賞の候補者にもなった人で、過日も『日本経済新聞』(2004/ 10/ 20 朝刊)において、「 雪の概念変えた北の文人――「小国文化フォーラム」事務局長 高橋実 」として随筆を執筆しているので、ご参照下さい。なお、申し遅れましたが、高橋さん、地震体験の玉稿をありがとうございました。

 新潟県中越地震体験ドキュメント

新潟県小国町 高橋 実

 10月23日(土)

 午後5時過ぎ、あたりは日暮れて家族は夕飯の準備が整った。長岡に嫁いだ娘みちよは明日ケアマネージャーの試験、会場の技科大まで送ってゆくことになっていた。1歳の誕生日を来月14日に控えた愛実を連れて実家へ来ていた。明日は妻が愛実の子守役である。
 その時、突然激しい地震、一瞬プロパンガスが止まった。「ガスを止めました」のメッセージが流れる。一瞬愛実が泣いた。実知世が毛布で愛実を抱いて外へ飛び出す。玄関の棚の花瓶がすさまじい音を立てて割れた。4人して家を飛び出す。前の床屋さんと隣の敏正さんも出ていた。そこへ2回目の余震、これもひどい。電柱に寄りかかる。声も出ない。いまだに経験したことない大きな地震。一体どういう地震だ。どこが震源地か。少しおさまってから家の中からラジオつき懐中電灯を持ってきた。ラジオは小千谷の様子を伝えている。車を車庫からだし、そこに実知世と愛実が入る、「実知世と愛実を守ってくれ」といいながら、茂子は、園長をしている救護施設へあわてて出かける。こんな災害に一生に一度遭うことがあるなんて、今年は、水害、台風、地震と災害続きだ。なぜこんな災害がたびたび起こるのだろうか。布団を取りに家に入るが、出る時なんともなかった玄関のゲタ箱が倒れ、物が散らばって足の踏み場もない。
 楢沢の役員が呼びに来て、車で集会所前に集まる。大勢集落の人が集まって炊き出しの準備に入る。ラジオでは死者が刻々と増えている。信じられない。夜が明けるともっと被害は広がるだろう。楢沢集会所は基礎が10センチも西に動き、床板がもり上がっている。
 楢沢車庫に泊っていたバス2台を総代が頼み込んで避難所に借りうける。ここに老人や子供を入ってもらう。ヒーターをつけ放しで車内は暖かい。10時頃、実知世の夫将行君、長岡から2時間かかってきて来て、びっくりさせる、実知世は喜ぶ、愛実も目を覚まし、きゃつきゃと喜ぶ。この無邪気さが救いだ。ケータイは「圏外」で通じない。電話も通じない。電気が切れて、真っ暗。安否情報に楢沢の人が出るが、返事が出来ない。集会所の石油ストーブがたかれ、お茶をいただく。長い夜だった。ストーブの周りでまんじりともせず夜を明かす。美しい星空だ。この星空の下で展開されている人間の喧騒を見守っているようだ。それにしても、何百年に一度に大地震をなぜ経験しなければならないのか。しきりに溜息が出る。町の五十嵐助役来て、防災無線が通じなくて小国の被害状況はマスコミで伝えられないという。生涯の内にこんな災害が来るとは、誰が予想していたか。阪神大地震なんか、他人事のように思っていた。愛実は風邪を引いてセキするが、一人はしゃいでいてこの子からエネルギーをいただく。

 10月24日(日)

 午前零時を過ぎると、「昨日の地震」とラジオは言う。もう昨日になってしまったのだ。震度は6強という。時間は午後5時56分だったと知る。余震が続くだろうという。入り口の濁沢の土砂崩れで、長岡蓬平温泉が孤立したという。一昨日宿泊したばかりのところだ。もしこの地震が一昨日に起きていたら、家に帰れなかっただろう。朝方冷えこむ。協力して、大釜に持ち寄った5升の米を炊く。味噌汁をつくり、炊き出し。いただいたあと解散。
 家の中に入ってそのすさまじい様子に息をのむ。本棚から落ちた本で通路は足の踏み場もない。玄関の壁に罅が、ふろばの白壁にも十字に罅が入る。茂子も戻ってくる。将行君帰ろうとしたら道が通れず、引き返してくる。柏崎よりの峠でケータイはつながる。実知世のケアマネの試験が延期されたことを知る。今日の瞽女唄公演は中止だ。家にあるプロパンを開けてお湯を沸かす。長岡に行くには、国道8号線を柏崎から116号へ抜けて薬師峠から宮本・関原経由でないとは入れないという。長岡が遠くなった。それにしても、なぜこんな災害に遭わねばならないのか、自嘲とも恨みとも取れる感情が湧いてきて、ため息付く。今から150年前の三条地震で良寛は「災害に遭う時は遭うがよかろう」といったではないか。しかし、そんな心境には程遠い。今まで気づいてきた俺の人生が崩れてゆくような錯覚になる。
 実知世一家が長岡に帰るというので、その道を探しに出る。404号は塚山先で通れないという。柏崎に向う。8号線を行く。ここも大積田代から先は通行止め、そこから左折して刈羽に出る。116号線、途中スタンドで給油。薬師峠なら長岡に行けるという。カーブの多い道を越え、宮本関原に入る、新産センターのコンビニに入るが飲み物は売れきれ。ともかくこれで長岡に行けると思って引き返す。家に2時半に着く。実知世夫婦を見送り、総代から渋海小に避難するよう班内に呼びかけてくれという。班内をまわるが行こうというものはいない。茂子の「おぐに荘」が人手がないというので、今夜はここに泊ることにする。体育館にずらりと布団が並び、ここで寝るという。暗い中を懐中電灯で、トイレに行く人の付き添い。朝は、御飯と煮物、プロパンで炊いたという。水は水道の上流から汲んできたという。80人の食事を水やガスなしで用意するのは大変だ。

10月25日(月)

 おぐに荘で石油ストーブを出す手伝い最中に激しい余震。これも慣れっこになった。おぐに荘から戻ると、班内にパンを配ってくれという。パンと牛乳を11軒に配布。電話が通じないで困る。田島峠に行くとケータイが通じる。ここまで来て、あちこちへ電話。町内も道路が陥没、土塀が落ち、石積みの塀が落ちている。壊れた花瓶やガラスを袋に入れて出す。2時に再び食事、パン、ジュース、アルファ米を配る。夜またおぐに荘泊まり。茂子と二人で着替えを持って帰宅すると電話が鳴り、電話が通じたことを知る。あちこちから見舞いの電話ひっきりなし。ふたたびおぐに荘へ引き返す。面接室に布団を敷いて寝る。ケータイの充電が出来ず、電気を待つ。水道が出るようになってありがたい。お湯を沸かして飲む。

10月26日(火)

 おぐに荘で夜中ぬっと入所者が部屋に入ってきてびっくりする。仲間に溶け込めずいつも玄関辺りでフラフラしている人という。朝早く目覚め、5時過ぎ布団を車に積んでおぐに荘を後にする。老人ホームおごしの里で電気がついているので、ここに行き、ケータイの充電。家に電気の来る日もすぐだろう。

施設で経験した中越地震

小国町 高橋茂子


 この度の中越地震は86名の利用者を抱えるわが施設も直撃した。地震の後、すぐ施設に駆けつけると、施設内はまだ自家発電で明るかったが、まもなく消えて、懐中電灯の明りのみとなった。まずこの人たちにを今晩どこで休んでいただくか、判断しかねていると、役場や消防団の人たちがきくれて、体育館がいいといわれる。急遽、施設の体育館に布団を敷いて、そこで一晩過ごすことにする。
 電気も水道もガスもない。86人の人たちの食事をどうするか。みんなで知恵を出し合った。水道の出ている職員の家で、米を磨ぎ、水をもらってきた。トイレの水は、バケツリレーで運んだ。県内の他の施設が、紙の食器や食料品を車で届けてくれた。懐中電灯の電池を職員が上越まで買いに走った。パンが欲しいが、手に入らない。
 25日にようやく電話が通じる。利用者の家族が、安否を心配して電話をかけてくるので、電話の前を離れられない。26日夜電気が来る。翌日に水道も復旧する。今度は、下水管が壊れていて、トイレと風呂が使えないという。ポータブルトイレを購入し、仮設トイレを設置してもらう。入浴は柏崎市の施設の風呂を借りる。
 地震から6日目、ようやくもとの生活に戻った。幸い建物がしっかりしていたため、外に避難しないですんだ。職員は自分の家も大変な中テキパキと働き、利用者は、くるくる変わる対応によく耐えた。たくさんの人たちのおかげで、この災害を乗り切ることが出来た。人々の善意が心にしみている。

〒949-5332
刈羽郡小国町上岩田524‐1
電話0258‐95‐2340
高橋 茂子 61歳 (福祉施設勤務)
(出典:『 新潟日報朝刊』2004年11月3日)

● 広がる被災地支援の輪

 大規模で、長期間にわたる新潟県中越地震は、ほぼ1ヶ月たったいまも、震度3〜4クラスの余震となって被災地と被災者を襲っています。他方で、全国各地から多くの支援がよせられ、余震だけでなく、押し寄せる冬の寒さと戦う新潟県の被災地と被災者を元気づけています。
 新潟県の隣に位置する群馬県では、定期的にボランティアの人々を乗せたバスを運行して支援を続けたり、各種の催し物があるたびに、被災地への支援を呼びかけています。11月13-14日にかけて、群馬県の県庁では、「ものづくりフェスティバル2004ー見よう、ふれよう、ぐんまの技」が開催されましたが、そこでも、各種の団体や参加者がそれぞれの立場で地震災害への救援(写真1写真2写真3を参照してください)に取り組んでいました。

激震、そして空白の2日間

前橋市在住 山田博文

 

 以下のリポートは、群馬県前橋市から、両親と弟家族の住む小国町法坂に救援にいった折り、現地で聞いた体験談や自身が個人的に経験したことを紹介しました。
 その目的は、多くの人々に震災の現状を知ってもらうこと、そして物心両面の救援をお願いしたいこと、より万全の震災対策を実施するために、気付いたことを提示すること、にあります。

地響きする大地

 それは突然やってきた。夕餉の支度の時だった。壁から落ちた掛け時計の針は、5時56分(2004年10月23日17:56)を指して止まっていた。わずか2時間のあいだに、震度5〜6の大地震が11回もつづいた。これは、地震観測史上でも初という。
 新潟県中越地方を襲った震度6の直下型大地震は、まず、「ズズズズーッ」というような不気味な振動と音が、足下から身体を駆け抜けるようにしてやってきた。すぐに、「ドカーン」と揺れがやってくる。立っていられなくなり、転がるように腰を下ろす。両手を広げて身体を支えようとしても、上下左右の大揺れで、双六のように転がされて、1分間ほどなのに、1時間にも感じられるほどの長さで翻弄される。
 こんな事態が、繰り返される。家具、什器、窓やドア、塀も、瓦も、地震の強力なエネルギーによって、転倒させられ、破損する。繰り返し到来した台風の大雨は、大地をぬらし、雨水を浸透させ、地盤を軟弱にし、地震の被害を増幅した。
 水道管、ガス管がはずれ、水も、ガスも、使うことができず、トイレも、食事も非日常的なやり方で済ます。夜になると、わずかなロウソクの明かりを頼りに家族が寄り添う。地震のエネルギーが爆発するカプセルの中に、近隣や社会から孤立させられ、置き去りにされる。
 自然の驚異を目の当たりに見せつけられ、人や社会の連帯のなかでしか、この震災の物心両面の被害を乗り越えることはできない、と知らされる。

携帯電話が2日間も使用不能

 山崩れが起こり、集落を襲い、家屋敷を押し流した。道路は、至る所に亀裂が入り、陥没し、人や物資の通行を拒否する。電柱がひっくり返り、一体は停電となる。家の電話も、携帯電話も使えなくなり、2〜3日間、音信不通のままとなる。
 テレビのニュースも見ることができず、外部との情報を遮断され、自分の家屋敷以外、周辺がどうなっているのかも分からない。助けを求め、連絡を取ろうとしても、無反応な電話機が手中にあるだけで、襲ってくる地震にじっと耐える。携帯電話が使えたなら、助かった命もあったにちがいない。
 被災地の親族と連絡を取ろうとしても、「故障中」といったアナウンスが繰り返されるだけだった。NTT本社に電話をかけ、2日経っても電話が不通となっている現状を早急に改善してほしいと訴える。
 だが、NTT本社では、被災地の現状が正確に把握されていなかった。新聞やテレビで知った通行止めのニュースを繰り返すだけだった。たまらず、「クルマがダメなら、ヘリコプターなどを飛ばして現地に駆けつけ、修理するような措置を執っているのか」と問いただしたら、電話の向こうで言葉はなかった。
 電話ユーザの支払っている高い電話料金は、ユーザのために有効に使われているのだろうか、検討が必要だ。また、NTTに民営化される以前は、山間の僻地でも、公衆電話があった。だが、民間企業として利益追求を目指すNTTは、採算の合わない地方の公衆電話は撤去た。かわってNTTは、個人に対して、携帯電話を推奨し、販売しているが、一番必要とされる今回のような非常事態の時に、命の綱の携帯電話は使えなかった。
 この事実をNTTはどれほど真摯に受け止め、どのような有効な改善策を提供するのか、その説明責任は免れない。この点は、今後も重大な関心を持って注視していきたい。

切断された交通網

 地震のニュースに接し、被災地に駆けつけようとする親族、ボランティア、友人・知人達は、道路の陥没、線路の切断、新幹線の脱線で、電車でも、クルマでも、目的地にたどり着けない。
 関東圏から震源地の小千谷市とその周囲の市町村に向かう主要道の関越自動車道は、堀之内や小千谷インターの道路陥没やひび割れで通行不能となり、一般道の国道17号線や上越線は、数百メートルの山崩れで埋まっていた。
 そこで、近所の書店で、目的地までの詳細な地図を求め、当該部署に電話をかけ、目的地に通じるルートを探り、地団駄を踏んで復旧を待ち、ようやく目的地に向かう。
 群馬県前橋市から震源地に近い新潟県小国町に向かうルートを探し回った。上信越道や北陸道を利用して、長野県を通過し、日本海側にでて、柏崎インターから国道291号線で、武石トンネルを通って小国町にいくルートしかなかった。トンネルは無事だった。
 道路の交通情報は錯綜していた。日本道路交通情報センターは、「柏崎方面から武石トンネルで小国町に入ってはいけない、小国町から柏崎方面へ向かうのはよい」という。その理由は定かでなかった。
 そこで、柏崎市役所に電話して聞くと、「いま、武石トンネルは片側通行でき、柏崎から小国に行ける、小国からも柏崎に抜けられる」といい、詳しい道を教えてくれた。ありがたい。
 日本道路交通情報センターの対応には、いまも疑念をもったままである。その指示に従うと、親族のいる被災地に救援にいけないからである。
 前橋から長野県周りで、柏崎市に到着してみると、ここは地震の被害が少なかったが、インターから小国に向かう途中で、陥没した大きな窪みにクルマを落としそうになった。危うくハンドルを切ると、対向車と衝突しそうになったが、何とか無事に通過する。
 武石トンネルを通り、小国町に入ると、道路は頻繁に陥没し、至る所で片側しか通ることができず、慎重に運転する。ようやく広い通りの十字路までやってきたが、信号機は消えたままであり、クルマは立ち往生した。
 夜のとばりがおり始めた頃、家族の顔に出会え、ひとまずほっとする。片道300キロメートル、ほぼ4時間かけてやってきた。

地震を避けて車中で就寝

 大地震は、家の中のタンス、食器棚、本箱、洋服ダンスなど、ありとあらゆるものを倒壊させていた。窓ガラスを割り、アルミサッシの窓を揺れ落としていた。思い入れのある家具や食器が目の前で破損し、心の一角に悲しい空洞ができる。近隣を見渡すと、ところどころに青いシートをかぶせた屋根が目立った。瓦がずり落ちたための一時の雨水対策だった。風がでて、シートをはぐと、雨は畳をぬらすことになる。これから寒い季節に向かう。たいへんだ。
 いつ起こるかわからない地震に備えた夜の安全対策は、倒壊の恐れのある家屋から少し離れたところに車を止めて、車中で就寝することだった。リクライニングシートを後部座席に倒し、毛布を持ち込み、フリースを着て、時折揺れる暗い車中で、眠りに入る。寒さは、長時間の睡眠を許してくれない。目覚めると、毛布を直し、ヒーターをかけたりする。それでも、明け方の冷え込みは容赦なく襲ってくる。
 クルマの狭いシートでは、手足も伸ばせず、寝返りも打てない。そんな夜が、3日も、4日もつづく。それでも、住むべき自宅があり、そこで過ごせるからまだいい。
 だが、繰り返し、巻き返し襲ってくる地震の恐怖は、人々に極度の緊張感を強い、神経を過敏にし、疲労を蓄積させ、トゲトゲした重苦しい空気のなかでの生活を余儀なくさせる。体力と気力の弱った高齢者は、地震によるショック死という悲劇に見舞われる。体力のある中年も、マイカーのなかで、何日も寝泊まりするうちに倒れ込む。

震災対策と震災情報の発信

 火山列島・地震列島のわが国では、どこかで地震が起きている。だから、地震によって倒壊した家も目立つ。だが、一部の地方自治体を例外として、政府や自治体は、天災で倒壊した自宅を個人が再建するとき、金銭的な援助をしないところが多い。
 一番困ったときに助けてもらえない政府や自治体は国民にとってどのような存在意義があるのか、どうして税金を支払わねばならないのか、といった率直な疑問がわく。この点は、至急に改善すべきである。
 他方、被災地の自治体は、もっと外に向けて情報を発信すべきである。何をしてほしいのか、何がいるのか、救援してほしい生の声を広く届けることに全力を尽くすべきであろう。ホームページでの情報発信など、インターネットの利用は、こんな時こそ真価を発揮させるべきであろう。そのような体制を日頃から整備しておく必要がある。
 被災地への救援で、残念なこともある。送られてきた救援物資の中には、明らかに腐敗していたり、賞味期限の切れた商品、といった物資が混ざっていた。考えたくはないが、かりに、悪徳政治家と業者が震災援助金などをもらうことだけを目的に、今回の震災をきっかけに、返品・在庫の山を処理するようなことがあったとしたら、受け取った被災地は迷惑だし、自分たちが「震災ビジネス」に利用されていることを知り、つらく、深い憤りにさいなまれる。
 救援物資の配給担当者は、このような事態を避けるために必要な情報を公開するような手段も考えたらどうだろうか。

 被災地の人々の平穏な暮らしが早く実現することを祈念します。


 県外からボランティアで救援に来られたみなさん、そして地元の小国町役場のみなさんと各集落の対策本部のみなさんの昼夜をおかずの救援活動に深く感謝します。お疲れさまです。一段落したら十分休養を取ってください。

 

新潟県小国町ホームページ
http://www.town.oguni.niigata.jp/

小国町の地震情報について
http://www.town.oguni.niigata.jp/jisin/jisin.html

 義援金の受け入れについて
小国町地震災害対策本部では、今回の地震災害で被災された方々に対し、お見舞いとして寄せられ
る義援金を受け付けています。

○郵便振替
・口座名義・・・小国町地震災害対策本部
・口座番号・・・00500−9−342
※ 全国の郵便局の窓口で振込みされる場合は、手数料が無料になります。
(対象期間平成16 年10 月28 日(木)〜12 月30 日(木)
○現金書留
・送金先・・・〒949-5292 刈羽郡小国町大字法坂793 番地
小国町役場内小国町地震災害対策本部
※ 各郵便局の窓口でお申し出いただくと、送金料は無料になります。
(対象期間平成16 年10 月28 日(木)〜11 月27 日(土)
小国町地震災害対策本部(小国町総務課)電話:0258−95−3111

 支援物資について
 
今回の災害においては、多くの皆様からご支援、ご声援いただきありがとうございます。おかげさ
まで徐々にですが町民の皆さんも落ち着いて生活できるようになって来ています。
 全国の皆様から多くの支援物資をお送りいただいておりますが、避難所生活や復旧活動に必要な物
資のうち不足している物資もあります。
 もし、ご支援をいただける方は大変恐縮ですが、事前にご一報くださるようお願いいたします。
必要な数量は、毎日動いており折角ご支援いただいても使用しないでしまうことも考えられるため
どうかよろしくお願いします。
連絡先小国町災害対策本部電話番号0258−95−3111

住所  〒949-5292 新潟県刈羽郡小国町大字法坂793番地 小国町役場 
  TEL 0258-95-3111 FAX 0258-95-2282  
E-MAIL  info@town.oguni.niigata.jp

新潟県中越地震全体に関する情報
http://saigai.pref.niigata.jp/content/jishin/jishin_1.html

新潟県中越地震被災者の安否情報を登録・確認することができます。

地震情報
http://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/earthquake/

(財)日本道路交通情報センター
道路交通情報Now !!
http://www.jartic.or.jp/traffic/roadtrafficinfo.html

義援金・義援物資について

義援金 
http://saigai.pref.niigata.jp/content/jishin/suitou/gienkin.html

義援物資
http://saigai.pref.niigata.jp/content/jishin/suitou/bussi.html