この「徒然の記」は、折に触れ、気の向くままに、書き継いだ身辺雑記


還暦記念の中欧の旅

山田博文

還暦の記念を兼ねて、はじめて、妻と二人で中欧を旅してきた。

日頃、データや文献で知っているつもりでも、実際に現地に行ってつくづく感じるのは、一体、戦後日本の経済成長とはなんだったのだろうか、ということである。

独仏は例外として、中欧諸国は、経済規模ならわが国の中規模の県経済ほどなのに、落ち着いた町並みにゆったりと時間が流れ、歩道も整備され、自転車道があり、路面電車が走り、もちろん騒々しい自動車道もあるが、歩道と一番離れた真ん中にのびる。

だから、足元のおぼつかなくなった高齢者でも、安心して街を散歩できる。結局、バリアフリーの街づくりが進むと、老若男女の万人にとってきわめて暮らしやすい街を手に入れたことになる。

街の喧噪に一役買っているのは、きらびやかなネオンサインであり、24時間開店しているコンビニ、山のような商品群を陳列し、客寄せに余念のない商店であるが、そのようなむき出しのビジネススタイルはあまり目立たなかった。

多分、人が普通に暮らすためには、1日2000キロカロリー前後の食物の摂取さえできれば、そんなに多くのものを必要としないのだろう。それ以上の消費は過剰消費となろう。実際、借金して消費してきたアメリカは、もしいまの消費水準を継続したいなら、あと4〜5個の地球資源が必要になるようだ。

経済成長は、人々の暮らしのゆとりと豊かさのためにあるべきであって、それ以上でも、それ以下でもないはずだ。

現代日本社会に問われているのは、一部大企業に偏倚している経済成長の果実を公平に分配することであり、経済社会の中身の充実、国民が主人公の国づくりである。

日本の代表的な企業を世界ランキングの上位にするための経済成長では、過労死やリストラが繰り返され、格差が拡大し、社会的な対立がますます深まるであろう。

「グローバル競争に勝つ」といった仮想敵のような貧弱な発想から、卒業することである。いまでさえ、平均的なドイツ人・フランス人よりも、3ヶ月間も多く働かされている現状を直視するなら、見えてくるものがあるはずだ。

「成長信仰」の呪縛から逃れ、国民生活の充実に目を向けた国づくりを、この国はいつになったらやるのだろう。

経済的にはとても小さな中欧諸国を旅して見えてきたのは、とても大きなことであったような気がする。

(2010.11「白門四八会」誌)

追伸:くさり橋2つの街の星月夜

庭の雪小国

山田博文

暦の上の春とは裏腹に、寒さの厳しい日々がつづく。雨の晴れ間を縫って、近隣をドライブする。わが故郷の方面にゆったり横たえる子持山は、いつも散歩の時に視線に入る山の一つである。芽吹きはじめた野山の緑をしばらく楽しんだ後、「道の駅 こもち」に車を止めた。

いつものように、草花や植木のコーナーを見て回った。狭いわが家の庭には、もう草花を植える余地はない。単なる冷やかしのつもりで、視線を泳がせていると、「雪小国」という文字が目に飛び込んできた。小国町の小国の字を使用したツバキの名前であった。珍しいこともあるものだと思い、その場を立ち去った。

でも、そのツバキにぶら下がっていた上品な淡桃色の花びらの写真と雪小国という名前は、帰宅のドライブの最中でも何回も頭に浮かんできた。やはり気になってインターネットで調べてみた。すると、それは、わが故郷小国町の「町の木」であった。ネット上には、雪小国に関する情報がたくさん紹介されていた。色は淡桃色、牡丹・八重咲き、割りしべ、大輪、ユキツバキ系、といった特徴をもつツバキであった。

翌日、そのツバキを求めて、「道の駅 こもち」に車を走らせた。あった。枯れたつぼみをつけた50センチほどの貧相な苗は、昨日と同じ棚にあった。さっそく買い求めて、家に持ち帰った。10個ほどのつぼみは、ほとんどが枯れており、三個ほどのつぼみは生きているようだった。鉢の中には、もう土がなく、白い根で埋まっていたので、移植しても根付くかどうか、はかりかねたが、植えてみた。

1週間ほどして、いつものように居間から庭を眺めていると、淡いピンクの花びらが目に飛び込んできた。雪小国が庭に根付いたのだった。たった一輪だったが、それはそれは美しい花だった(画像をご覧あれ)。日を追って雪小国は美しくなった。淡いピンクの大小の花びらが波のように重なり合い、深い雪の中から生まれた生命力を上品に醸し出している。デジタルカメラで撮影し、パソコンに取り込み、眺め入っている。

わが家の狭い庭で、雪小国に特別な位置を確保するため、植木の配置換えをおこなった。故郷につながりのある草木がこれでまた一つ増えた。父が持ってきた木瓜、南天、ヤマボウシは、もちろん特等席を占めるが、それ以外にも、小国の実家や山野からは、春蘭、木賊、ショウジョウバカマ、ヤブコウジ、中橋菫、などなどが庭にやってきた。そのうえ、今回は、町の木までがやってきたので、もういうことはないし、植えるところもない。

『小国文化』(第63号、小国文化フォーラム発行、2010年6月)

大変動期にある世界と日本経済

山田博文

世界と日本の経済は、「100年に1度の大不況」に陥っている。世界中で、年間5000万人が失業し、大手企業や金融機関も破綻し、一時的に国有企業になる、といった事態が進行している。

震源地はアメリカである。世のため人のためになる物づくりよりも、右から左にお金を動かすことで、より大きなもうけを得ようとする経済を主導してきたアメリカの「カジノ型金融経済」、日本名なら「博打経済」は、とうとう行き着くところまで行き着いて、破綻してしまったからである。アメリカでは、大手金融機関も、企業も倒産し、多くの人々が職と家を失った。こんなことは、戦後のみならず1930年代世界大不況以来初めてのことであり、「100年に1度」といわれるゆえんである。

「カジノ型金融経済」の被害に苦しむアメリカの人々は、自分たちをここまで追い込んだいままでの政権を拒否し、新しい政権を選択した。アメリカは変わりつつある。

アメリカ発の大不況なのに、日本経済はアメリカ以上に深刻な事態に陥ってしまった。

それは、とくにこの10年間の「小泉・竹中構造改革」によって、大企業と中小企業、大都市圏と地方経済、さらに人々の間で、経済格差・貧富の格差が極端に拡大してしまい、多くの国民と中小零細企業は、不況に対抗する余裕を奪われてしまったからである。

さらに、日本の経済成長は、外国、とくにアメリカへの輸出に頼った「外需依存」型のゆがんだ「経済成長」だったために、なんでも買ってくれたアメリカが大不況に陥ることで日本製の車も、電化製品も、機械も売れなくなったためである。

ことほど左様に、世界と日本の経済は深刻な事態にあるが、一方で、新しい変化もはじまっている。

多分、今年中か、遅くとも来年には、日本経済は、中国に追い抜かれてしまう。そして、今後、20年以内には、中国はアメリカを抜き世界最大の経済大国となる。それにインド経済がつづく。

21世紀の世界経済は、日本、中国、韓国、インドなどのアジア経済圏を中心にして動く新しい時代をむかえる。ヨーロッパ経済圏とアメリカ経済圏を中心に動いてきた世界経済の歴史に新しい一ページが開かれる時代がやってきつつある。

世界の経済規模は、約5500兆円ほどであるが、アジア経済も、すでにその3割に達している。まもなく日本の経済規模を追い抜く中国の人口は、アメリカのほぼ4倍の13億人である。急速に所得水準を上昇させてきた中国で、一家に一台の車を持つようになると、日本海を挟んだすぐ隣に、アメリカ四個分の巨大市場が存在する時代がやってきた。

日本の高い産業技術がほしい「世界の工場」中国、高品質の物づくりで市場のほしい「貿易立国」日本、この二つのアジアの巨人は、互いを必要としているようである。

ヨーロッパ連合(EU)は、二つの巨人ドイツとフランスが握手をして築き上げた。はたしてアジア連合(AU)は、実現されるのか。

9月の総選挙で日本にも新しい政権が誕生した。日本は変われるのだろうか。

『小国文化』(小国文化フォーラム発行、2009年)

大 学 事 情ー昨日・今日・明日ー

               山田 博文

 われらの学生時代は、キャンパスの中庭が舞台になり、さまざまなアピールが社会に対して発せられた時代であった。たしかに騒々しかった。まともに講義すら行われなかったし、出席する学生も少なかった。

 でも、大学で学ぶことをサボっていたわけではなかった。むしろ、社会や人生について、そして世界と平和について、一生懸命学んだ時代であった。大学生協や神田界隈の本屋では、難しい哲学や社会科学の本が売れていた。自主的に学んだ若者たちは、社会に対して自分の意思を伝えようとしていた。

 あれから40年近くの月日が流れた。いま、わたしは、東京から100キロほど離れた地方の大学に勤め、そこで経済学を教えている。将来教師をめざす、どちらかといえば、真面目な学生たちに囲まれて、講義にゼミに、論文や教科書執筆に、日々、勤しんでいる。大学生協の理事長職も引き受けてしまった。

 でも、どこかがちがう。静かである。キャンパスを歩いても、立て看板が見えない。学生たちが集まって集会を開いたりしている姿など、どこにも見あたらない。出席を取らなくとも、学生たちは、自主的に講義に出る。といって、生協や近隣の本屋で、教科書や参考文献がよく売れているわけではない。そもそも書籍全般があまり売れない。バイト代は、ケイタイや旅行に遣う。

 今の学生たちに抜けているのは、社会に目を向けること、社会科学を学ぼうとすること、自分の意見を持って、社会に働きかけ、なにかを実践することである。もっとも、これは、学生たちだけではない。ヨーロッパでは、老いも若きも自分の主張を掲げて街頭に出ているが、日本社会は黙っている。

 そうなれば、成長重視の企業社会日本だから、金銭や権力を持つサイドは大手を振って自分の主張を押し出してくる。大学は企業の研究機関になり新製品の開発に取り組みなさい。社会科学よりも、理科教育と科学技術に力を入れなさい・・・仮に、そうやって高度成長を達成しても、社会は良くならない。成長の成果は、よりよき社会を実現するよりも、さらなる成長のために配分される。時代閉塞社会日本。

 大学も、社会も、みな元気になるためには、自分たちで自分たちの未来を決めるということを、もっと強く主張し、実践することが必要な時代にいる。「自由」を手に入れたわれらが「団塊世代」よ、昔に戻って、もっと騒げ!未来はわれらのものだ!

(2008.8 「白門四八会10周年記念」誌)

スクラップブック

山田博文

 

仕事のひとつになるが、内外の新聞・雑誌に目を通し、世界や日本の経済動向を調べている。

目に留まった記事や論説は、コピーをしたり、切り抜いたりして、スクラップブックに貼り付けている。これが結構の仕事になる。もっとも、すべて自分でやるわけではなく、外国の新聞は、めぼしい記事を赤線で囲むことはやるが、切り抜きと貼り付けは妻に頼んでいる。

他の仕事が立て込むと、スクラップづくりは一時止まるので、新聞の山が部屋に築かれる。それは、いつ読むのか、いつ切り抜くのか、と無言で問いかけてくる。そこで、やおら古新聞を広げ、赤ボールペンを持って経済記事を追いかける。

いつものように、サーモンピンク色のイギリスの新聞(「フィナンシアルタイムズ」)を見ていると、突然、カシワザキという横文字が飛び込んできた。中越沖地震の報道だった。「壊れた高速道路」、「閉鎖された原子力発電所」、という見出しのカラー写真が一面トップを飾っていた。もちろん、同じ日付の日本の新聞は、もっと大きなカラー写真とスペースをさいて、マグニチュード六・八の震災を報道していた。

だが、このイギリス紙「フィナンシアルタイムズ」は、ヨーロッパだけでなく、アメリカなど、多くの英語圏の国々に読者をもつ、長い歴史と影響力のある新聞なので、国際社会の目は、今回の中越沖地震をどう見ているのかが、とても気になって読み進んだ。

やはり、被災した柏崎刈羽原子力発電所の問題に、紙面の大きなスペースがさかれていた。「日本の原子炉は、震度6強といった地震に持ちこたえるようには建てられていなかった」、「活断層が施設の下を走っている」、「地震の後、日本は、原子力発電所を休止した」、といった見出しで報道されている。

たしかに、世界中にはたくさんの原発が存在するが、なんといっても、地震の直撃を受けた原発は今回が初めてであり、そのことは、世界中を驚かせるに十分な出来事だった。しかも、活断層の上に原発をつくったということについては、原発の安全性を考慮したら、信じがたい行為であると見なしている。

地震列島の日本に、原発をつくった電力各社と政府は、国際社会に対して、日本の原発の安全性について、説明責任を負ったことになる。今回は、地震が原因だが、原子力事故は内外で発生している。

世界初の原子炉の重大事故は、1957年に、イギリス北西部のウインズケールの火災であり、その後、アメリカのスリーマイル島の原発炉心溶融事故(79年)、旧ソ連のチェルノブイリの原発火災事故(86年)、などが代表的な原子力事故である。日本でも、1978年の東京電力福島原発事故以来、関西電力、中部電力、北陸電力の各原発で重大な事故が全国的に発生し、東海村ジェ・オー・シー社の核燃料加工施設臨界事故(99年)、関西電力美浜発電所の配管破損事故(2004年)などは、記憶に新しい。これに今回の中越沖地震による柏崎刈羽原発事故がつづいた。生物の遺伝情報を破壊し、発ガン物質でもある放射能を無害にする技術を、人類は持っていない。だから、核廃棄物は、地中深く捨ててきた。

自然を支配し、自分たちの都合の良いように造り替えてきたのが、人類と科学技術の歴史である。だが、もし、いまのような資源とエネルギー消費がこのまま続くと、宇宙船地球号はやがて人の住めない星になってしまう。そのことは、すでに、1972年の「ローマクラブレポート」(「成長の限界」)において、各国の専門家たちが指摘してきたことである。経済大国アメリカ並みのエネルギー消費をつづけるには、地球があと4〜5個も必要のようだ。

これからも、原子力発電というパンドラの箱を開け続けるのか、それとも、エネルギー消費のあり方を含めて、未来世代に緑の地球を残すために、世界のあり方を抜本的に見直すのか、持続可能な社会システムをどうやって作るのかーーわたしたちは、そんなのっぴきならない問題に直面しているようである。

スクラップブックづくりは、いろいろなことを教え、考えさせてくれるので、時たま、「どうしてこんな作業を何十年もつづけてきたのか」と、自問自答を繰り返しながらも、やっぱり古新聞に、赤線を入れてしまう。

 

『小国文化』(小国文化フォーラム発行、2007年12月、第48号掲載)(やまだ ひろふみ、小国町出身、群馬大教授)

 

故郷をつなぐ架け橋

山田博文

青葉若葉が目映いばかりに輝く季節になった。

この時期は、木々や草花の生命力に圧倒される。窓を覆うように広がるヤマボウシの葉は、降り注ぐ春の日の光を緑色に変える。もうシュンランは、楚々とした花を覗かせている。ショウジョウバカマだって、若葉を見せる。ヤブコウジも、先端に小さな緑のつぼみをつけた。薄紫の花をつけたナガハシスミレは、もう盛りを過ぎた。

わが家の狭い庭で、春の饗宴を繰りひろげるヤマボウシも、たくさんの草花も、じつは、みんな故郷の小国町の産だ。

というのも、庭を彩るこれらの草木は、幼い頃、時間を忘れて遊び回った故郷の山に分け入って採集し、この庭に移植したからだ。だから、わが家の庭は、春夏秋冬、故郷の香りと色彩に満ちている。

そこに、もう1匹、故郷の産が加わった。柴犬である。名前は、幸助(こうすけ)という。ようやく4ヵ月になる子犬の幸助は、元気いっぱい庭を駆けめぐっている。燃えさかる春の緑を上回るような生命の躍動を見せる。

背中と頭部が黒く、顔、腹、手足が茶色と白に彩られた柴犬(黒柴)幸助の生みの親は、故郷に住む弟とその愛犬である。幸助が、わが家にやってきた3月10日は、父の83歳の誕生日であり、幸助の60日目の誕生日でもあった。日本海地方では、雪が1週間も降り続き、週間予想も翌日から雪になる予報がでていたが、その合間のこの日1日だけ、晴天が訪れた。父の誕生祝いと幸助を受け取るために、早春の晴天の関越自動車道をクルマで走った。

さすがに、あの悪夢のような中越大震災の爪痕は、すっかり補修されていた。久しぶりに、車窓に展開する上州と越後の山々を眺め、快適なドライブをした。小千谷インターを降り、ちょっと寄り道をし、妻と一緒に美味しいおソバに舌鼓を打つ。家に到着すると、さっそく母から、「ソバなんか、うちでくえばいいこて」、と小言を言われる。

83歳の父が、生後60日目の子犬と一緒に遊んでいた。どちらも、元気だった。父が長靴を履いて、雪かきをしている側で、子犬の幸助がはね回る。父は、雪かきに疲れて、何度も、一息つく。幸助は疲れを知らないで、走り続ける。これが、83歳と60日目の違いのようだ。田畑を覆う真っ白い雪原は、早春の陽光に輝いていた。

前橋は、冬の日照時間が長い地方である。冬でも、田畑には、何かしらの作物が緑をつけている。故郷の田畑は、半年間働き、半年間は、雪の下である。多分、その分、故郷の田畑で採れた作物には、たくさんの滋養が詰まっているのだろう。もちろん、その滋養の中には、父母の汗も混じっている。

子犬の幸助が、前橋のわが家にやってきて、1ヶ月後、父母と弟たちが、様子を見にやってきた。すると、幸助は、ちぎれんばかりに尾を振って歓迎し、幾度も飛びついては、母の顔をなめた。まだ、ちゃんと覚えていたのである。母は、感激した。これで、故郷とわが家をつなぐ架け橋がまた増えた。もっとも、幸助という名前も、実家の屋号である。

『小国文化』第45号掲載(やまだ ひろふみ、小国町出身、群馬大学教授) 2007年5月9日

中越大震災から1年

-問い直される行政と経済大国日本-

2005年10月27日

今年の秋の刈り入れは、晴天に恵まれ、作業がはかどった。重い袋をトラクターから取り外し、田んぼのあぜ道まで運んだ。カントリーに持って行く小型トラックに乗せるのも、重労働だ。汗が噴き出る。その作業を小1時間もつづけると、さすがにバテ気味になり、あぜ道に足を広げて座り込み、肩で息をする。でも、なぜか、満足感も感じている。

現代社会が忘れかけた家族の共同作業のせいなのか、汗を流すことのない日々の仕事から解放されたせいなのか、稲穂の香りと青空と心休まる故郷の田園風景に癒されるのかー多分、そのすべてなのだろう。

だが、この地方を襲った大震災を思い出すと、うれしさも中くらいなり、オラが秋、といった心境になる。

震度7の激震が故郷を襲ったのは、2004年10月23日(土)夕方5時56分だった。その中越大震災から1年が経過した。まもなく2回目の寒い冬がやってくる。今年は、初雪も例年より1週間ほど早かった。

前橋方面から県境の長いトンネルを抜け、関越自動車道を走ると、地震で崩壊し、陥没した箇所を復旧する工事に出くわす。故郷に近づくにつれ、ときどきクルマがバウンドする。ところによっては、50センチほど陥没し、道路が波打っている。そこに分厚くアスファルトが敷かれ、路面が水平に保たれていた。

秋の空のもと、「日本一おいしいお米」のコシヒカリの刈り入れは、すでに終わっている。見通しのよくなった田んぼには、カラスやスズメたちの姿が点在する。虫やカエル、ドジョウなどをついばんでいるようだ。収穫が終わった秋の日の田園風景は、地方社会のどこにでもみられる風景である。

でも、日本の米どころは、大震災の爪痕を、ここかしこに残す。遠方の山々は、所々に山崩れを物語る茶褐色の山肌を見せている。集落のなかの生活道路には、まだ亀裂が走り、陥没している箇所もある。応急措置か、砂利で亀裂を埋めていた。路肩も崩れている。車で通るには慎重になる。家屋の石垣や土手のくずれも、完全には修復されていない。そこまで手が回らないのだ。

人々の暮らしは大変だ。衣・食・住といった生活の基本に支障を来す家族が大勢いるからである。倒壊を免れた家屋は、補修し、そこで暮らしが継続できる。でも、修復不能な家屋は、住むことはできない。やむなく「仮設住宅」での暮らしを強いられる。1年たったいまでも、3216世帯、1万201名の人々が、仮設住宅などでの避難生活を送っている。

内閣府によると、昨年度の災害で全壊・半壊した住宅は、約3万5000戸ある。そのうち、国の被災者生活再建支援制度による支援金を受けたのは、約3500戸、被災者の1割にすぎない。しかも支援金はわずかであり、資金使途も賃貸住宅の家賃などに限定される。住宅再建には使用できないのだ。住宅再建に使用できる公的資金といえば、県の提供する百万円などである。2000万円ほどかかる建築費からすれば、これでは住宅の再建など不可能である。

被災した家族の3割にあたる1000世帯が自力での住宅再建を断念した、という。現金収入の少ない地方社会で、二重の住宅ローンを組むことなど、到底できない。まして高齢者世帯なら、なおさらのことである。いまは仮設住宅でなんとかしのいでいる。

でも、仮設住宅の入居期間は、2年間である。あと1年間しか住めない。その後、どうすればいいのだろうか。親戚縁者や個人の力では、やはり限界がある。

自己責任といった非情な市場経済の論理を、社会生活に当てはめるのは不可能である。国民の租税によって成立する近代租税国家である政府や地方自治体などの出番であり、その真摯な対応が急がれる。世界第2位の「経済大国日本」のあり方が問われてもいる。

SWさんへの読書感想

今日、本屋さんに注文していた本(丸山清枝『花の手紙—越後・妻有の里からー』)が手に入りました。小振りで、可憐な装丁で、タイトルと内容にふさわしいステキな本でした。越後の親しい地名や山野草が登場し、懐かしさを触発させてくれました。

たぶん、「故郷」というとき、人が心に思い描くのは、慣れ親しんだ故郷の自然—「ウサギ追いしかの山」であり、「小鮒釣りしかの川」であるようにおもいます。暑い夏の昼下がりに蝉を求めて近所の山に入った光景、蝉を取り逃がした大きなタモノキの姿などがふと浮かんでくるからです。

この本には、小国の山に分け入り、わが家に移植し、いま庭で可憐な花を付けている山野草のショウジョウバカマ(添付ファイル参照)も紹介されています。著者の丸山さんが、この花にはじめてであったのは長岡の悠久山公園であったようですね(20ページ)。しかも、丸山さんもこの花を持ち帰ったと書いてあり、ぼくと同じことをやっている人なんだ、と若干の親しみも感じました。ただ、ショウジョウバカマの花の特徴を表現するとき、「猿が腰をかける・・云々・・」との指摘がありますが、ぼくなら、ショウジョウバカマの花は、「夏の夜に、子供たちの小さな指先ではじける線香花火のような花」と表現したいですね。

とまれ、この本で、故郷の山野草と山河の世界に、しばし遊ぶきっかけを作ってくれた君に感謝しよう。ぼくの思いこみかもしれませんが、この春の訪れの陽気もあってか、君はちょっと疲れているのかもしれない。ぼくもかつて同じ体験をしたことがあるのでなんとなくそう思う。どうすればいいかは、人それぞれだから、なんともいえないけど、ぼくの場合は、そのとき感じるストレスを解消するために、もっと大きなストレスを自分にかけてやること(激しいスポーツや新しい仕事など)で、うっちゃったときもあったようです。

さて、明日から、新学期がスタートし、あれやこれやの仕事が待っています。今月も一本の原稿の締切がありますが、これは商業誌の原稿なので待ったなし、もちろんバッチリです、そのはず、たぶん大丈夫でしょう。では、お元気で。

浅間山の噴火

2004年9月1日

窓のカーテンを引き、1日が終わり、夕食の支度がされていたとき、突然、西側の窓ガラスがガタガタと振動した。また、どこかで、だれかが、夏の名残の花火でもあげているのだろう、と思った。それにしては、時間が早すぎた。カーテンを開けて、近隣の花火の姿を追ったが、そのような気配はなかった。

そうこうするうちに、夕食も済み、ソファーでテレビをみていたら、浅間山の噴火のニュースが流れた。あの窓ガラスのがたつきは、ここから40キロほど離れた軽井沢の浅間山の噴火のせいだった。かなり離れているといっても、近くの利根川の川岸に出れば、浅間山はよく見える。山頂からわき上がっているような噴煙も確かめられので、そんなに離れているとは思えない距離だ。

早朝の散歩のたびによく浅間山をみてきたが、たしかにここ1年ほどは、山頂に雲がかかっているようだった。それは噴火活動が盛んになっていた証だったのだ。おだやかな表情の美しい山も、内部にマグマをため、爆発のエネルギーを蓄えてきていたのだ。火山は、死んではいなかった。いまも、現役で、活動し続けていた。

数百年、数千年の過去をたどれば、浅間山は繰り返し噴火してきた。そもそも群馬県の県庁所在地の前橋市そのものが、浅間山の大噴火で発生した火砕流が何度も堆積した台地の上にある。いまも、利根川の河原に赤茶けた硬い岩石が、ところどころに顔をつきだしている。これは2万4000年ほど前の火砕流の堆積物という。とても固い。集中豪雨で利根川が濁流を集め、その岩石に急流が激しくぶつかっても、水の勢いを跳ね返し、数メートルも、水しぶきを上げている赤茶けた岩石の光景は、しばしば目撃された。あの岩石は、いま噴煙を上げる浅間山の噴火口からやってきた。

そう考えると、2万4000年の時空は消滅し、現在の浅間山と赤茶けた岩石が一体化した。火砕流を40キロも広げるような大爆発はそうそうあるものではないだろうが、自然の驚異は思わぬところに隠れていて、突然顔を出し、びっくりさせられる。

夏・水・少年の日

2004年7月28日

この街に移住してきて、近所にプールがあることは知っていた。自宅から敷島公園を歩いて5、6分ゆくと、天井がガラス張りの50メートルプールと屋外の25メートルプール、他に、飛び込み専用のプールや幼児用プールなど、水泳競技や夏の水遊びには恵まれすぎるほどの施設が整っている。

いずれ、プールで泳いでみよう、と思いつつ日々が過ぎていった。転機が訪れたのは、ちょっとしたことで足先を損傷し、日課の散歩ができなくなったときだ。水泳なら足先が痛くとも、身体を自由に動かせるからだ。さっそく運動のために、プールに行った。

入口で、400円(夏場は200円)を払って、入場券を購入し、ロッカールームで水着に着替え、天井がガラス張りの50メートルプールに足を入れた。温水にしているといっても、やや冷たさを感じつつ、身体を水に浸し、ゆっくりと泳ぎだした。はじめは平泳ぎ。身体に水がまといつき、腕が水をかき分け、足で、水を蹴る。地面を歩くのとはまったく違う非日常世界。いささかの緊張感もともない、気持ちも水の中にいることに集中し、精神が躍動し始めた。この爽やかな緊張感はどこからくるのだろう。

50メートルプールを往復する。平泳ぎから背泳にスイッチした。仰ぎ見るガラス張りの高い天井のそのまたはるかに上方に、夏の白い雲がゆったりと浮かんでいた。天空の白い雲をみながら、至福の時を感じつつ、背泳で泳ぎ続けた。

水に身体を浸す喜びと緊張感。見上げる空に夏の白い雲。この体験は、はるか少年の日の自分を思い出させた。夏になると、炎天下の渋海川で、夢中になって水と戯れていた。友と競って泳ぎ、高い岩場から飛び込み、水中に潜って魚を探し、川底を探検し、ヤスでナマズをついた。川底の岩の下できらりと光るナマズの小さな2つの目が印象的であった。その目のあいだをねらって、眉間にヤスを打ち込むのであった。そうしないと、力の強いナマズは、川底で暴れ回り、自分の身体を引きちぎって逃げていってしまうからであった。楽しい日々であった。

もちろん、故郷の川は今も流れている。ただ、水量が少なくなり、川底に泥がたまり、流木にゴミがまといつき、もはや子どもたちに夏の水遊びの日々を提供してくれるには、あまりにも貧弱になってしまった。多分、全国の河川がそうだろう。経済成長を目的にした公共土木事業のため、ダムを造り、河床や川岸をコンクリートで覆い、水辺を壊し、少年たちを追い払い、魚たちも追い払ってしまったからである。

室内のガラスの天井をもつ管理の行き届いた50メートルプールで、55才になった元少年が、それこそ久方ぶりに水に親しんだとき、過ぎ去った夏のあの感動的な水遊びの少年の日々がクッキリと思い出されてきた。

瞽女(ごぜ)おけさ』

「竹下玲子瞽女唄テープ」より

一、 はあー佐渡の金山鉱山祭の

  月と書いたる手ぬぐいはよ

  月に恐れてかむられぬ

  すっと行ってすっと帰りやなんのことない

  居続け打つから丸裸あらよいよい

二、 はあー竹と名が付きゃ寒竹、唐竹

  地区の篠竹 子竹 山竹 畑の畔の

  女笹 なんぞの子竹まで

  可愛い殿さなおたけ なあ かわいい

  はあ し畑の鞘豆 一鞘走れや 皆走る

  わたしや あんたに従いて走る

  あらよいよい

三、 ああ わしに会いたくば

  上州前橋 敷島河原の

  小砂利まじりの 荒砂持って来て

  わたしのお寝間の 三尺小窓の

  戸障子の間から

  姿かくしてぇ バラバラと撒きなよ

  小雨降るかと 出て待ちる

 この唄は、「小国文化フォーラム」のMT氏から紹介とお尋ねがあった。

 氏によれば、唄の中にある「上州前橋 敷島河原の〜」は、現前橋市敷島町周辺なのかどうか?とのお尋ねであった。果たしてどこなのだろうか?

 現敷島町周辺は、利根川の河原であり、かつて小出村の小出河原と呼ばれ、大正14年になって、敷島公園と改称された経緯があるようだ。多分、この時になってはじめて、「敷島」との地名が付けられたはずだから、この唄は、大正14年以降に歌われた唄なのだろうか? (2001年8月21日)

セミしぐれ

 2001年7月30日

夏の日、近所の公園を散歩していると、突然、セミの鳴き声が響いてきた。もう何年も、夏のセミの鳴き声を聞いていなかったせいか、どこからともなく聞こえてきたセミの鳴き声に触発されて、遠い少年の日の夏のセミしぐれの情景が鮮やかによみがえった。

暑かった夏の日に、これでもかと暑さを倍増するように、四方八方から降り注いできたセミしぐれだった。

少年の頃の夏の1日は、セミしぐれで明け、セミしぐれで暮れた。日中は、セミしぐれの中を、集落を流れる川に泳ぎに向かった。そして、友達と一緒に時間いっぱいまで水浴びをし、セミしぐれの中を帰宅した。その頃、ちょうど昼寝から起きた父母と一緒に、冷えたスイカをほおばった。

そして、時に畑仕事の手伝いをした。クワを握り、畑を耕している間も、セミしぐれは降り注いできた。畑の周りは、夏草がおおい繁り、頭上には、桐や楢の木などがそびえ、その幹にたくさんのセミが留まり、お互いにこの夏だけの短い生命を讃歌するように大合唱に励んでいた。手も届くような高さで鳴いているセミを捕まえようと手をかざすと、決まって顔に樹液をかけられ、逃げられてしまった。

やがて、セミの鳴き声に変化が起こる。いままで、もっぱら優勢であったアブラゼミの鳴き声が徐々に弱くなる。かわって、甲高い「カナカナカナッ!カナカナカナッ!」というヒグラシの鳴き声が大きくなってくる。そうすると、まもなく日暮れがやってくる。夏の一日が終わったのだ。そして、家族は帰路につく。ときに帰宅が遅くなり、夜の薄闇があたりを包む頃になると、日中のセミしぐれに代わって、田んぼから蛙の声が聞こえてくる。セミしぐれの日中から、はっきり夜の訪れを告げるのは蛙の合唱だった。

ヒヨドリ夫婦の営巣と子育て観察日誌

庭の紅葉の木ではじまったヒヨドリの営巣(1)

2001年7月17日

いつになく「ピィーピィー、キィーキィー」と、騒々しい小鳥の鳴き声が響いてきていた。この家に転居してきてほぼ一ヶ月という蒸し暑い7月半ばの午後の日だった。

庭のサルスベリに止まったその鳥は、いささか尾が長いようだ。頭部の羽毛は、柳葉状に立ち、耳羽は栗色のようだ。図鑑などを調べているうちに、どうやらヒヨドリであることがわかった。ヒヨドリが、わが家の庭の紅葉の木で巣作りをはじめたのだった。

いやはや驚いた。というのも、庭の紅葉は、大木ではない。ましてその枝振りは玄関から門柱までの通路にかぶさっているので、大人ならほとんど手の届く高さの枝の下は、日に何回も家人の出入りがあるからである。朝は新聞を取りに、正午間近には郵便物を取りに、夕方は夕刊や娘の帰宅で人が行き来する場所だ。そんな場所に、ヒヨドリは巣作りをはじめたのだった。

営巣の作業は、1対のヒヨドリ夫婦の仲むつまじいばかりの共同作業のようだ。なにをするにも2羽で行動をともにしている一羽が営巣用の葉っぱや木の小枝をくわえて作業をはじめると、もう1羽は、隣のサルスベリの枝に止まってあたりを警戒し、猫などが現れようものなら、けたたましい鳴き声で緊急事態の発生を伝えていた。作業が済むと2羽が同時に飛び立っていく。

ほどなくして、枯れた竹の葉や枯れ枝をくわえて、また2羽が一緒になって戻ってくる。1羽は監視役、一羽は営巣の作業に専念する。こんなことを日に幾度となく繰り返しているうちに、3日目頃には、工事中の巣も姿形を整えてきて、どこから見ても、立派な小鳥の巣に仕上がった。

ヒヨドリ夫婦との突然の別れ(2)

2001年7月30日

それは突然の出来事だった。

朝、庭を横切って門の郵便受けまで新聞を取りにいった娘が、あわてた様子で、「お父さん、小鳥の卵が庭に落ちているよ。」、という。さっそく、紅葉の巣の下あたりを見ると、たしかに小鳥の卵が割れて落ちている。巣のちょうど下あたりは、落下した勢いで卵の殻も粉々になり、卵の中身が黄色くはみだしていた。少し離れた場所に、大きな卵の殻1つが転がっていた。

それは、どうみても、ヒヨドリ夫婦が丹精込めて暖めていた卵に間違いなかった。巣作りが一段落した頃、多分、卵を暖めているのであろう、1羽は巣の中に座り、巣の端から少し長めの尾羽がはみ出していた。やはり、抱卵をしていたのだった。

それにしても、またどうしてこんなことになってしまったのだろうか。しばらくすると卵からかえった幼鳥のかわいい声を聞けるのではないか、と楽しみにしていたのに。

卵の落ちてきた巣を見ると、端の方がわずかに崩れているようにも見えるが、巣全体は壊れていなかった。それに、落ちた卵はたった1つのようだし、多分、まだいくつかの卵は巣にあり、ヒヨドリ夫婦もしばらくしたらまた帰ってくるにちがいない。そうだ、またあのにぎやかな鳴き声がわが家の小さな庭を包み込むだろう。それまでちょっとの辛抱だ。

だが、あの元気なヒヨドリ夫婦は、2度と帰ってこなかった。何日待っても帰ってこなかった。一体、あの巣でなにが起こったのだろうか。そういえば、3〜4匹の猫が、以前から庭を行き来しているのを目撃していた。あるいはあの猫たちの仕業だろうか。小鳥の羽は散らばっていなかったので、親鳥たちに被害はなかったはずだ。手を伸ばせば届くような庭先の木の上で、どんなドラマがあったのだろうか。

引越騒動顛末記

(2001年7月13日記)

一箱の重さは、15〜20キロ。ウントコショと持ち上げると、どっしりした重量が両腕にズンと伝わってくる。これが、書籍を引越用の小さめの段ボール箱に詰め込んだ重さだった。6段の本箱で、こんな段ボール箱が、4〜5個できあがる。ということは、床にかかる本箱1つの重要は、およそ100キロであり、4個本箱を並べると、400キロ近くの重量が床板にかかっていたことになる。そう考えてゾッとした。

よくピアノは床を補強したピアノ床のうえに置くように、といわれるが、本箱4個分はそれよりも100キロ近くも重かったのだ。床板がひしゃげなくてよかった、と改めて思う。鉄筋コンクリートのマンションだから、耐久性が高かったのだろうか。

でも、新しい住処は、木造であり、しかも設計図をよく見ると、2階の納戸や書庫の下は、リビングとダイニングであり、空間が広がり、2階を支える通し柱はない。これでは、2階の納戸と書庫は、名前だけで、そこに重いものを押し込んだら、その重量を支える1階の柱がないのだから、当然、2階の床はひしゃげることになろう。そんなことがわかったので、急遽、方針を変更し、重い書籍のたぐいは、1階にも運び込むようにしなければならなくなった。

そのうえ、中古住宅として最初に見学したときには、見落としていたのだが、押入の天袋から首を突っ込んで、2階の床を点検したとき、床を支える根太がゆがんでいたりした。ということは、2階の床面は、しっかりした平面とならず、多少とも波打つ状態にならざるを得ない。そして、実際にそのような状態になっているため、歩くとギシギシ音がする。こんなことがわかったのも、引越間際の慌ただしさの中だった。

それやこれやと各種の懸念がわきあがったが、大工の棟梁は、床が落ちることは「絶対ない!」と繰り返し断言するし、東京で年月を経た中古住宅に住む妹は、「10年たってもこのくらいなら、状態はとてもいい」と助言するし、そんなことを言われ続けると、やがて、もう購入してしまったし、ローンも組んでしまったし、後は自分で日曜大工をやるしかないか、と半ばあきらめ、半ば前向きの姿勢をとるようになってくる。

かくして、大量の荷物は次々に運び込まれ、2階も1階も、段ボール箱の山に埋め尽くされ、足の踏み場もない状態になる。建物の構造がどうの、重量の耐久性がどうのといった当初の懸念はどこかに雲散霧消してしまい、ただただ山なす段ボール箱の整理に追いまくられる。今日はこの部屋、明日はこの部屋と計画を立てるのだが、絶えず不確定要因が現れて、予定は未定になり、計画は未達成になる。ほこりにまみれながら、重い段ボール箱をあっちにうっちゃり、こっちにうっちゃりして時間が過ぎていく。

なんとか暮らせるようになるのが、引越荷物を片づけ初めてからほぼ1ヶ月後というところか。これで、9回目かの引越にけりを付けることになるのだろうか。それにしても、引越をする度に、もうこんな騒動はこりごりと、いつも肝に銘じてきたはずなのだがまたやってしまったようだ。仮に、もう1度引越をするようなことになったら、それは、この世とおさらばするときであってほしいとおもう。

新しい住処

(2001年7月13日記)

多分、50歳代になると、30歳代のからの住宅ローンが払い終わる頃になると思われる。だが、「人皆直行、我一人横行」といった性格なのか、この歳になって新たに住宅ローンを組み、新しい住処で暮らすことになった。

たしかに、これまでの官舎住まいは、いつまでも続くわけでなく、定年とともにそこを出なくてはならない運命にあるので、その時期をちょっと早めただけ、といえないことはない。でも、いままでこれといった借金をしたこともなく、美しいとはいえないまでも、清く貧しい暮らしをしてきた身からすれば、一大決心であることもまた確かなのである。

ともかくも、ことは、あれよ、あれよ、という間に運んでしまい、気が付いたときには、新しい住処に転居していた。なにがそうさせたのだろうか。この家は、職場までの通勤途上にあり、歩いてこの辺を通ったこともあり、土地勘があったこと、緑が多かったこと、静かだったこと、利根川と公園に近く、散歩に適した環境だったこと、などなど、気に入った条件を満たしていたせいだった。そして、もちろん、我が家の家計にとって上限に近かったが、価格がそれなりにリーズナブルな価格であったことによる。

かくして、話は一足飛びに進み、不動産会社との交渉、住宅金融公庫をはじめとした関係方面への手配、各種の手続き、膨大な書類へのサインと印鑑、何度となく足を運ぶ羽目になった手続き、などなどを次々になし終えた。といっても、これをやったのは妻であり、当方は言われるままにサインし、印鑑を押したにすぎない。ともかくも、かくして、4月に、気に入った中古住宅の物件を発見後、ほぼ2ヶ月後の6月には、その住宅で暮らすようになった。

住み着いて1ヶ月たち、それなりに満足している。もちろん不満がないわけでない。いままで暮らしてきた鉄筋コンクリートの住まいと比較すれば、暑い、そして冬がくれば、多分、寒いはずだし、外に出れば蚊に食われる、設計ミスか、採寸ミスもあるようだし、隣家の生活の気配がする、窓を開け放っておけば、大きな声の話し声は聞こえてくる。ようするに、プライバシーが多少とも開けっぴろげになり、その分、外気や自然に密着した生活が始まった、ともいえるのだろう。

思い返してみれば、幼かった頃の田舎での生活は、このようなものだったような気がする。夏にはしょっちゅう蚊に食われていたものだ。隣近所の内輪げんかも聞こえてきていた。もっとも、それ以上に大声を上げていたに違いないのだが。夏には、蝉しぐれが降り注ぎ、じっとしていても汗が額を伝わって地面に流れ落ちていた。冬は雪が降り、閉め忘れた窓から掛け布団の上に雪が降り注いだりもした。無垢材を使用した床板は、あちこちでしなり、反り返っていた。すきま風は、壁からも、床からも流れ込んできていた。

家の中には、ネズミもいたし、猫もいたし、蛇もいたし、ナメクジもいたし、もちろん、ハエや蚊、アブのたぐいは乱れ飛んでいた。牛もいたし、山羊もいたし、鶏もいたし、ウサギもいたし、近所には、馬も、豚もいた。しかも、みな元気闊達で、大きなうなり声や餌を催促する声、いななき、時を告げる鶏鳴、犬や猫のけんかの声などが、四六時中聞こえてきていた。時には、晴れの日のご馳走のために、飼育していた豚や鶏などが屠殺され、そのときの断末魔のような緊張感あふれる大きな声が村中に響き渡るときもあった。

ことほど左様に、緑の山並みに包まれた山里の村には、いつも生命の輝きと自然の営みと人の暮らしが共存していた。それと比べれば、地方都市の公園や川辺の空間に残された自然など、自然に似て非なるものといえるかも知れない。ただ、いまの住処が、かつて、日本の地方社会で営まれていた自然あふれる生活環境を想起させてくれたことは、それだけで十分満足しなければならないように思われる。

新しき1ページを期待していますーMTさんへ

どういうわけか久しぶりに風邪をひいてしまい、早々に床についていました。いつものように、寝付きの読書をしていると、突然、原稿の締切を思い出し、あわててパソコンに向かい、拙稿をしたためています。

『芸術村友の会』の関係者のみなさん、大変ありがとうございました。『へんなか』をはじめ、各種の出版物を通じて、郷里の歴史・文化・伝統・生活をわたしたちに伝えていただき、豊かな時間を与えてくださいました。

郷里を離れてもうかれこれ30年を越えてしまいましたが、縁あって隣県に暮らすことになりました。5月には、恒例となった田植えの手伝いに帰りました。もちろん、山菜取りと山菜料理も味わいました。

14年間にわたって文化発信の貴重な活動をされてきた郷里のみなさんが、郷里の歴史に、また新しい1ページを加えてくださることに、大きな期待をよせています。

山田博文(やまだひろふみ・前橋市在住)

「セイヤー、セイヤー」

2000年10月15日

夏が去り、ときどき、寒さを感じさせるような風に乗って、勇ましい「セイヤー、セイヤー」のかけ声が響いてくる。

恒例の秋祭りがはじまった。かけ声に宿る人々の熱気のためか、町の空気も、いくぶん、活気を取り戻したようだ。道ですれ違う若い衆の歩く姿も、今日は、いつになく肩を左右に大きく振っているようだ。ハレの楽しい日なのに、真剣な顔つきで向こうから若者がやってくる。それがまた、祭りの緊張感を伝えている。祭りの内側に入りこみ、祭りを自ら盛り立て、作り上げようとしているにちがいない。

「だんべえ踊り」で親しまれている前橋祭りは、10月半ばの土日の2日間実施される。音楽に合わせて、老いも若きも踊りまくる。どちらかといえば、中年の女性の数が圧倒的に多い。子育てを終え、美容と健康のため、町の活性化のため、近所つきあいのため、などなどの理由で、大挙して参加しているのだろう。

だんべえ踊りは、激しい踊りだ。音楽に合わせて、絶えず飛んだり、はねたりの動作を繰り返すからだ。顔には、おおつぶの汗が光る。たぶん、この日のために、長い間、練習を繰り返し、激しい踊りに耐えられる体力を養ってきたのだろう。笑顔で飛び跳ねる50歳代や60歳代、ひょっとするとそれ以上の年輩のご婦人の姿とエネルギーは、だんべえ踊りの2日間しか見ることができないような迫力に満ちている。

ときたま小中学生の一団の姿も見える。その真剣な顔には、大人と一緒に踊ることの誇らしさも感じさせるようだ。そして、このままずっと踊り続けるような錯覚を与えるほど、軽やかなステップを披露している。

街や暮らしが、老若男女のあらゆる人々によって営まれていることを、祭りの日は気づかせてくれる。

秋を告げる風

2000年9月25日

9月も、もう1週間ほどで終わろうとしている。夜、カーテンを揺らして入ってくる風に、冷気を感じた。風に乗ってやってきた冷気は、心地よさではなく、寒さを運んできた。そうなんだ。なにも、紅葉や、突き抜けた空や、虫の音からだけでなく、冷気を含んだ風に、寒さを感じることによっても、はっきりと秋の到来が告げられるようだ。

うんざりするほど暑い日々が続き、冷気を含んだ風に心地よさを感じている間は、まだ夏なのだ。ひんやりしたクーラーの風に、喜びを感じているとき、夏はまっさかりの盛夏となろう。1日のうち、朝に、夕方に、シャワーを浴び、汗を流すことで、夏を流していた。

だが、秋は、突然やってきた。季節は、はっきりとめぐる。さっそく長袖のシャツを着た。長袖を着ることで、秋がよく見える。見えることで、いっそう風に冷たさを感じる。そして、秋が深まってゆく。

盛夏の日々には、つぎに秋がやってくることなど、感じることもできなかったし、考えてもみなかった。ギラギラ輝く太陽の下、畑でたわわに実る夏野菜は、夏の強烈なエネルギーを吸収することで、鮮やかな色彩と風味を提供する。ナスも、キュウリも、トマトも、夏がくれた自然の賜物だ。朝、畑からもぎ取り、一口かじったときのパリパリ感は、はち切れんばかりの夏の生気の証明であり、元気そうな真夏の音でもある。そんなことをお盆に帰省した田舎で体験し、このときばかりは、夏野菜の美味をもたらしてくれた夏のエネルギーに、一瞬、感謝した。

まだ紅葉は見あたらない。ただ、木立からは一部の葉が落ちて、地面で枯れ葉になり、木々の根本に横たわる。そこを歩くと、カサコソカサコソと音を立てる。秋は、耳からもやってくる。いくぶん葉っぱが落ちたことで、たわわに抱え込んだ葉っぱの緑の重さを脱ぎ捨てて、少し休息しているように見えるのも、厳寒の冬の前の秋の訪れを告げているようだ。

葉っぱが落ちた木立の隙間は、天から突き刺してくる木洩れ日の隙間でなく、天まで突き抜ける青空を眺めるための隙間になる。

秋は、さまざまなかたちでやってくる。

ヤマガラ

小枝に3羽のヤマガラがならんでとまっていた。まだ幾分小柄のようだ。多分、ちょっと前に巣立ちしたのだろう。「ピィピイピイーッ」、と元気よく鳴き交わしている。

この赤城山麓の公園は、雑木林や水辺が豊富にあり、豊かな自然を残している。腹部の赤茶けた色と黒い羽根とが対称的だ。頬に白い模様があるのも、元気そうでいい。願わくば、近辺の雑木林のなかで、豊かな暮らしを営み、生を全うして欲しいものだ。

「オーイ、マサトクーン」

2000年10月10日

今日も、聞こえてきた。「オーイ、マサトクーン」、「オーイ、マサトクーン」と呼びかけている。前の最上階の北側の窓から、顔を出して、少し離れて建つ後ろの家の友達の名前を呼ぶ声だ。呼ばれたはずの「マサトクン」からの返事は、不思議に聞こえてこない。返事をしているのだろうか?あるいは、母親にでも、「大きな声を出すと近所迷惑だから、声を出さないで、手でも振りなさい」とでもいわれているのだろうか?

呼びかける側の学齢前の少年は、元気だ。しかも、山びこのように、少年の妹がすぐに続けて、同じ呼びかけを繰り返す。「オーイ、マサトクーン」、「オーイ、マサトクーン」、「きょう、あそべる?」、「きょう、あそべる?」・・・まるで山びこのようだ。違うのは、後の方の幼い妹の声が、前の兄の声より、幾分オクターブが高いことくらいで、正確無比に、兄の呼びかけを繰り返す。しかも、兄以上に元気よく。しばらく、この呼びかけが繰り返される。

この子たちの母は、ひょっとして朝の食事の後片づけや掃除に忙しいのだろうか。幼い兄弟の朝の楽しそうな日課が、そのようなわけで、辺り一面に響きわたる。

冬枯れの赤城山

(2000年 1月 30日 )

久しぶりに冬の赤城山を歩いた。葉を落としきった木立は、根本まで冬の日差しに包まれていた。落ちた葉は深く積もり、歩くたびに、ガサゴソ、ガサゴソ、と大きな音を立てた。木立のあいだから抜けて見える空は、青かった。

暦は、2000年の1月末。さすがに北斜面の日陰には、まだ雪が残り、白い帯となって山裾に模様を描いていた。日陰は、いかにも寒そうだった。冬の陽光を求めて、南斜面を歩いた。あちこちで雪解けの水を集めた小川が流れ、至る所で、水しぶきがあがっていた。水しぶきは、氷結し、川面に表出した石や木の根っこを、白い氷で包んでいた。氷柱が幾層にも重なって、さかんにしぶきを受け止めていた。多分そうやって、気温が急激に下がる夜半に、氷の厚い被いが作られていくのだろう。

時折、向こうの車道からひびいてくる車の音は、冬枯れの赤城にはふさわしくない騒音だが、それを除けば、冬枯れの晴れ渡ったこのひとときは、凛とした冷気のなかで、静かに、晴れやかに、心を癒し、解放してくれる。頭上をとびかう小鳥たちの声と羽音は、静まりかえった冬山の生命の響きのようだ。

見上げると、あちこちに、切り立った峰が行き交っている。葉を落とした大小の木立が、刈り込んだイガグリ頭のように、冬山の稜線を縁取っていた。赤城山は一つの山の名称ではなく、荒山、地蔵岳、鍋割山など、いくつかの山々の集合体の名称だ。そのため、いくつもの峰が重なり合ってそびえている。山裾は、なだらかだが、上に登ってくるにつれて、入り組んだ姿を見せる。それがまた、赤城の山懐の深さを醸し出しているともいえそうだ。

前橋の街の中心から20分ほど車を走らせると、赤城山の中腹までやってくる。自宅からほぼ16キローこれが車のトリップメーターで測定された距離だった。ここには、自然を観察したり、親しむために造成されたいろいろな「森」が、遊歩道で連なっている。「昆虫の森」は、冬のあいだは冬眠中のようで、クワガタやカブト虫たちも、土のなかや枯れ葉の下で春を待っているようだ。水生昆虫の住処と思われる池は、ところどころ氷に覆われていて、とても寒そうだった。いまはシンと静まり返っている森も、夏になると、大勢の子供たちの歓声に包まれ、にぎわいをみせているにちがいない。

そんなことに思いをはせつつ、さらに奥に踏み入っていった。どうやら、道をまちがえてしまったようだ。歩道と思った道は、道ではなく、雨期になると雨を集めて流れる川床だった。しばらく、迷い道を楽しんだが、そうともしておれない。不安ではないが、なんとなく気がせく。もと来た道まで引き返して、そこからしばらく歩いたら、ようやく広い道まででた。

さて、この道は、下っていったらよいのか、登っていったらよいのか。決心して、登っていった。見晴らしのいい場所に来て、ようやく自分の位置がわかった。起伏に富んではいたが、狭い範囲をあっちに行ったり、こっちに来たりしていたことがわかった。知らない山中では、多分、こうやって道に迷い、場合によっては、遭難してしまうのだろうか。自宅から、わずかの距離にある赤城の森で、自然の懐の深さを垣間みて、ちよっとうれしくなった。また出かけてくることにしよう。

パワーブックG3

(1999年 12月 3日)

モービルタイプのパソコンを注文したが、パソコン部品の生産拠点になっている台湾で大地震が発生したこともあり、さていつ届くのやらと案じていた。だが、大学で大量にまとめて発注しているせいか、思いの外早めに手にすることができた。ポータブルなパソコンがあれば、今まで以上に快適な仕事ができるのではないかと楽しい空想に浸り、かたやほんとに年内にくるのかしらと危ぶみながら待ち続けたのが、マッキントッシュのPowerBookG3だった。

手元に置いてあれやこれやといじってみて、ほぼ1週間たった。3年前に設定を試みて失敗に終わり、ながくて暑い夏の汗まみれの作業だけがやけに印象に残っているパソコン通信も、アッという間に実現できたことには、さすがにビックリした。これは、日進月歩の技術進歩であるにちがいないが、パソコン通信がパソコンの売り上げに大きく影響するといった昨今の「情報化時代」のニーズを反映したせいでもあろう。

いずれにせよ、自宅に居ながらにして、自分の膝の上のパソコンから世界中のどのホームページにも入ることができ、また世界に向かってメールを発信することができるようになるなんて、これはやはり驚異的なことといわなければならないだろう。もちろん、大学の研究室の自分のパソコンに届いているメールを見ることも、必要な返信を送ることも、いとも簡単にやってのけてくれる。この小振りなパワーブックは、いつでも、どこでも手元に置くことができる。冬の寒いときにはコタツのテーブルの上に、就寝直前でも枕元に、こちらがパソコンのあるところまで出向かなくとも、パソコンの方からこちらの身についてきてくれる。しかも、その小さな内部に「世界」を引き連れてやってくる。

ただ、世界を相手にした情報の相互交流が可能になったといっても、その「情報」とは、無限に存在する自然界や人間社会からの生の第1次的な情報のなかから、何らかの価値判断によって切り取られ、コンピュータの中に入力されることによって目にすることが出きるようになった、ごくごく限定された「情報」であることもまた確かである。世界と自分がインターネットを通じて対峙しているといっても、その「世界」とは、きわめて限定された、自然界や人間社会から見れば、とても小さな小さな人工的な「サイバー空間」にすぎないことになる。それ以上でも、それ以下でもない。こんなところに、「情報化社会」の特徴と問題点が示されているようだ。

とまれ、このパソコンでどのような仕事ができるか、いやどのような仕事をなしえたか、それが問題だ、ということになるのだろうか。

ホタルの光に輝く故郷

山 田 博 文

久方ぶりにホタルをみた。何十年ぶりだろう。多分、小・中学生以来のことだろうから、40年近く前になろうか。いや、その後、旅行などで、ホタルのいそうな山間の清流に行った経験がないとは言えないので、それほど昔のことではないかもしれない。ただ、今夜みたホタルがあまりにも印象的だったので、つい幼かりしころにみたホタルの群舞を思い出してしまったせいなのかもしれない。

夕方、暑さを逃れ、外に出て、ホタルの放つ青白い光に魅了され、暑さを忘れて、みとれていたことなど、とうの昔に忘れていた。夕涼みの折り、暗やみに飛び交うホタルの群に出会うと、「ホーホー、ホタル来い、こっちの水は甘いぞ、ホーホー、ホタル来い。」とうたいながら、群舞するホタルをもっと近くに呼び寄せようとしたものだった。ドウデラの山を背に、いまはなき増田小学校方面に開けた中空をたくさんのホタルが飛び交っていた。時たま、苔野島や山野田方面に向かうクルマのライトが闇を切り裂いて通り過ぎていった。漆黒の闇の中で点滅するホタルの光は、たとえようもなく感動的で、幼い私を虜にした。それは、闇の中で、怪しく輝く宝石のようでもあった。近づいてきたホタルをそっと手に取り、逃げないように両手でかこって、指のすき間から覗くと、自分の手のひらにいるとも知らずに、光り輝きつづけるホタルに一層感動した。ホタルが、手のひらで、ボウーと輝くたびに、その光に照らし出された自分の鼻先や手相や指紋が浮かび上がっては消えた。

いま思うと、残忍なことをしたようだが、大きなホタルを捕まえて、手で握りつぶしたこともあった。すると、光を放っていたホタルのお尻は、光度を落としながらも、そのまま光りつづけていた。すりつぶしても、まだ光っていた。そして、ちょっと苦味のするようなほのかな匂いがした。ホタルを育んだ小川は、夜も、ガボガボと音を立てて流れていた。ホタルの死骸を洗い落とすと、それでも、わずかに光を放ちながら、夜の水のなかに消えていった。

30万人の住む地方都市・前橋で、ホタルをみたのは、幸運というほかない。しかも、ダウンタウンのど真ん中、県庁舎のほぼ真下の人工的な小さなせせらぎが舞台だった。前橋公園の「さちの池」から流れ出るせせらぎで、ホタルを育てる会のボランティア活動の成果のようだ。川幅ほぼ2メートル、全長70〜80メートルほどで、利根川に注ぎこむ。もっともここで出会ったホタルは、たった1匹で、しかも、一瞬の瞬きであった。夜の闇のなかで、一度光っただけだった。でも、その一瞬の輝きは、記憶の底に眠っていた故郷のホタルの群舞を鮮やかに呼び戻してくれたのだった。小国町のこと、原集落のこと、家の前を流れる小川、セミをとって遊んだドウデラの山、木造の体育館と階段の軋んだ増田小学校、苔野島や山野田に通じる三叉路、観音堂広場での盆踊り、などなど。

ダウンタウンの夜の公園の小さな自然の営みは、地方都市に暮らす多くの人々に、大きな感動を与えたようだ。新聞の地方版も、そのことを伝えていた。21世紀を目前にして、いま、地球の環境問題や大規模開発の是非が問われている。都市の公園の一角で、夏に輝くホタルたちは、その一瞬の瞬きを通じて、何にも増して環境問題や自然の大切さを、多くの人たちに語りかけているようだ。

故郷の小国町でも、時折、大規模開発のうわさを耳にする。21世紀に思いをはせると、大規模に開発された小国町はなぜか似合わない。むしろ、東京や関東圏から気軽に足をのばせる豊かな自然の故郷、清流が行き交い、ホタルが乱舞し、緑にあふれ、日本一おいしいお米や野菜を作り、四季を通じて楽しみを与えてくれる故郷、失われつつある自然やそこで育んだ特産物をてんこ盛りにして差し出し、人々を魅了する故郷・・・そんな小国町が、21世紀にとてもよく似合っているようだ。経済的にみても、将来にわたって、首都圏などの巨大マーケットを振り向かせるのは、故郷の特産物やそれを育む豊かな自然の魅力にある、といえるからである。

今夜みたホタルの光は、一瞬の瞬きではあったが、それは、21世紀を展望した故郷の将来への大きな期待をこめた輝きだったように思われてならなかった。(「友の会便り」第5号に掲載)

( やまだ ひろふみ 1949年小国町生まれ・前橋市在住、「友の会」会員、群馬大学教育学部教授・商学博士、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp )

(1999年6月4日)

川に行く日々

(1999年5月17日記)

夕方、いつものように歩数計をつけて、近くの川原にやってきた。病後の日課として、ほぼ7000歩見当を歩くことにしたので、夕方を散歩の時間に充てるときがおおい。蒸し暑い日には、心地よい川風が吹き抜けていく。少し歩いてきた身体には、一層涼しく感じられる。

川原の岩に腰を下ろし、川面をじっとみていると、まだ陽が高いせいもあって、足元を小さな虫の死骸が絶えることなく流れていることがわかった。それを発見して、少し驚いてしまった。小さなころ、川幅や水量がいまの前橋付近を流れる利根川ほどの故郷の川は、わたしの遊び場だった。通称「大川」といったが、小国町を南北に貫いて流れる渋海川である。夏ともなると、川に行かない日はなかった。けれども、川面や水中に、このように絶えることなく虫の死骸が流れていたとは、まったく気づかなかった。これは県境の深い山々に水源を発する利根川ならではの現象なのだろうか。いや、そうではないだろう。40年ほど前のふるさとの川も、緑なす深い山々を縫って流れていたからだ。

多分、これだけの虫の死骸を流すことで、豊穰な大河は、数々の水生生物や魚たちの生命を支えていくことができるのだ。そんなことを考えているいまも、頭上をたくさんのコウモリが飛び交っている。川は、水の流れで生命を育んでいるだけでないようだ。川風は、その風の中にも、たくさんの虫たちを抱え込んでいるにちがいない。それを知っているコウモリたちは、こうして夕方になると、集団をなして川面や川原を飛び交い、われ先にと、夕餉の御馳走にあずかっているのだ。

もうしばらくすると、アユ釣りが解禁になる。そうすると、いつもやってくる川原は、釣り人達でにぎわう。アユは、川虫ではなく水中の石に付着したコケを食べる。清らかな水を通してきた太陽光線が水中でコケを育み、アユはそのコケを食する。アユの友釣りは、縄張りを守ろうとするアユの習性を利用した釣りだ。日ごろ、散歩にやってくる川では、たくさんの命の営みが絶えることなくつづいている。

座っていた岩から腰を上げ、草むらを横切ろうとしたら、突然、1羽の鴨が慌てて飛び立った。バタバタッと、大きな羽音を出したので、びっくりしたが、びっくりしたのはこちらだけでない。鴨の方は、夕方の静寂を破る不届きな族の闖入に驚いたことであろう。そういえば、昼間は、鴨だけでなく、川鵜も、川面に付きだした岩の上から魚を狙っていたが、川鵜は夕方どこにいったのだろうか。

まもなく榛名山の向こうに、赤い大きな夕日が沈もうとしている。中央大橋にかかる歩道橋までやってきて振り返ると、夕日が川面に反射して長く尾を引きながらユラユラと赤く揺れていた。もう、空中を飛び交うコウモリもみえなくなった。夜のとばりが下りた川原や水中では、生きものたちの夜の営みが、いつものように絶えることなく繰り返されているにちがいない。

川辺の散策

1998年9月17日記

朝焼けの美しさにつられて散歩にでた。台風一過、久しぶりの抜けるような青空だ。官舎のある平和町を抜けて、利根川をめざす。早朝の散歩は、すがすがしい。10分程歩くと、利根川だ。新潟県との県境に水源をもち、途中たくさんの支流を集め、千葉県の銚子で太平洋に注ぎこむ全長322キロの大河だ。坂東太郎といわれる大利根川の規模には比ぶべくもないが、それでも、故郷の渋海川は、幼子のわたしたちにとって大川だった。よく渋海川で遊んだ。そのせいか、いまなお水辺は大好きである。だから利根川周辺は、わたしのお気に入りの散策コースになっている。

いつものように、川辺に立つグリーンドームの階段を上ると、今朝は、赤城山と榛名山がくっきりとみえた。山に囲まれた小国町で育ったせいか、まわりに山が見えると、安心する。そういえば、大正時代にこの前橋を訪れた小国町出身の歌人小川水明が、上州三山のこの眺望を歌にしていたー「赤城、榛名、遠く妙義の山々の峻りて霜の白き前橋市」(和久利誓一編『小川水明歌集』短歌新聞社、104ページ)。故郷の歌人が、ほぼ80年も前に、いまわたしの暮らしている前橋の地に立って、おなじような景色に見とれていたことを思うと、感慨深いものがある。歌中に、「霜の白き前橋市」とあることから、小川水明の来橋は、冬の寒い日だったようだ。

ドームの階段を下りて、川辺の広い駐車場に立つと、どことなく様子がおかしい。あざやかなグリーンだった芝生は、泥をかぶって姿を消している。そこら中に植木が根っ子を見せてころがったり、草木がなぎ倒されている。えぐりとられた植え込みの穴には、濁った水たまりができ、その水たまりの中で、たくさんのハヤがパクパク口を開けて泳いでいる。この川辺の駐車場は、昨日、あふれる洪水に埋まり、川幅を増した利根川の川底になっていたのだった。すぐ近くの県庁の駐車場でも、80台ほどのクルマが濁流に飲み込まれて、川下に運ばれてしまったそうだ。1981年にも、洪水で、20台ほどのクルマが流されたそうだ。わずか2日ほどの大雨なのに、あふれかえった濁流は、川辺の風景すら変えてしまうほどの力をもっている。まさに自然の脅威だ。

水かさが減ったとはいえ、利根川には、まだ濁流が渦巻いていた。はて故郷の渋海川は、どうだったのだろう。台風は、故郷にも大雨を降らせたはずだ。濁流があふれかえって、刈入れ前の田んぼに押し寄せるようなことはなかったのだろうか。幸い、今年の刈入れは、台風前に終わっていた。父の英断に台風が除けていったようだ。手伝いには行けなかったが、比較的豊作だったようだ。また今年も、父の作ったおいしいコシヒカリが、わが家の食卓にのぼる。願わくば、いつまでも、こうしてコシヒカリを作り続けていてほしいものだ。 (「友の会便り」第2号に掲載)

( やまだ ひろふみ 「友の会」会員、群馬大学教授、小国町出身・前橋市在住、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp )

お盆ー民族大移動

(1998年8月11日)

今年もまた日本列島には、恒例の「民族大移動」のシーズンがやって来た。北海道から沖縄まで、東西南北どこにいても、この時期になると、故郷の生家をめざして、家族単位で日本列島を移動する。北海道の出身者が沖縄から帰省(逆もまた眞なり)するとなると、ことはそう簡単ではない。もちろん、移動自体は、電車にせよ、飛行機にせよ、いとも簡単にできる。だが、友人がいうには、その費用が半端ではない。家族そろっての帰省は、夏のボーナスを使い切ってしまうようだ。それでも、やっぱり、お盆には故郷へ帰る。

もっとも、家族単位の移動といっても、子どもたちが両親と一緒に旅行を楽しむのは、せいぜい中学生までだ。それ以上の年頃になると、受験があったり、友達との約束があったりで、家族はバラバラになってしまう。バラバラになった家族がまた集い、一緒になって旅行をするのは、成長して成人になり、ファミリーをつくったときだ。でも、旅行先は、もはや、田舎だけではなく、海外であったり、避暑地であったりする。故郷は、自分のものでなく、父や母のものになってしまっている。

かたや、都会に出てきて、年老いて、故郷に帰省できないようになると、お盆中であっても、都会に残る。人々がこぞって都会を脱出したせいか、車の排気ガスが少なくなって、まばゆいばかりの美しい大都会の青空が久方ぶりに広がっている。都会に出ていった戦後世代では、もう2世が中年の域に達し、3世も成人になるような時代がやってきた。そうなると、お盆中の「民族大移動」は、なくなってしまうのだろうか。それとも、ルーツを訪ね、お墓参りをする風習は、これからもつづいていくのだろうか。

それにしても、暑さの残る日々に、大勢の親戚縁者を受け入れる田舎の苦労と多忙さは、たいへんなものだ。いつにないほどのあたりのにぎわいが、晴れの日々がやってきたことの楽しみを告げたにせよ、久方ぶりに肉親の元気な笑顔にまみえたにせよ、大挙して訪れた大家族の世話は、大仕事にちがいない。故郷を離れて暮らすものの一人として、感謝の気持ちを記しておこう。

田植えと友人

(1998年5月18日、『へんなか』20号掲載)

「一生に一度でいいから、田植えというものをこの手でやってみたい」と、友人が唐突にいいだした。5月連休前の研究会が終わり、雑談の後、友人の研究室を退席しようとしたときだった。友人は、地域経済論を専攻しているので、農村地域研究の一環といえばそれも不思議ではない。が、どうやらそうではないようだ。

そういえば、わたしの田舎はコメどころの新潟県であること、故郷では、父母がいまも田畑にいそしんでいること、自分も、五月の連休には、田植えの手伝いに行っていること、などをこの友人に話していた。大都市生まれの友人は、わたしの話によく耳を傾けていた。

はなしはすぐにまとまった。5月3日の早朝に、友人宅にクルマを着け、そのまま一緒に関越自動車道にのり、友人とわたしと妻の3人は、2時間後には、田舎の玄関先に到着していた。お茶を飲んでから、さっそく山菜とりに山に分け入った。山野田近くの道路際で山菜をとりながら、この先にある「小国芸術村」の話をした。すると、この友人の話は具体的で、行ってみてきたようなことをいう。やっぱりそうだった。もう5〜6年前に、友人は、山野田も訪ねていたし、小国和紙の工房も訪ねていた。ここに来るまで、本人も気づかなかったのは、わたし同様、かれもかなりの方向音痴だったからである。

生まれも育ちも大阪市で、その後、群馬県下の大学に勤めていた友人が、わたしが遠く故郷を離れていたときに、故郷の小国町を訪問していたことは、新鮮な驚きだった。タラの芽をとりながら、話を聞いていた母も、弟も、びっくりした。「小国芸術村」の存在は、近隣や全国に、小国町の存在と街興しの情報を発信し、目に見えぬところで、着々と成果をあげてきていた。

山菜とりは、プロともいえる母や弟も一緒だったので、盛況だった。足が痛いといっていた母も、山に入ると、痛さを忘れた。友人も満足した。夜の宴も、盛り上がった。翌日は、田植えだ。機械の後に入り、友人と並んで田植えをやった。田んぼ特有の泥に、足を取られていた友人も、だんだん上達していった。スピードもついた。

たしかに、減反などの農業政策は、いろんな問題を抱え込んでいる。市場の論理で日本の農業を裁断することは、日本の文化や国土や治山治水の伝統と技術やを壊してしまう危険性をもつ。アメリカの尺度で、日本の農業と農村は測れない。現代日本の経済と社会が、世紀の転換点にあることはまちがいない。問題は、転換の内容である。トップダウンではなく、総意を集めたものなら、そう大きな誤審はしない。これが歴史の教訓であろう。とまれ、田植えをやって、汗をかくことの喜びは、友人だけのものではなかった。

後日、わたしの研究室のパソコンに、友人からの電子メールが届いていた。小国での田植えは、「一生の記念になった」、「自分のゼミの学生に小国で田植えをやった話をした」、すると、「自分も小国の出身だ」、という学生がいた、しかも、その学生は、わたしの弟の同僚の同期生だった。

今年の田植えは、いろんな出会いのチャンスを提供してくれたようだ。

(やまだ ひろふみ 1949年小国町原生まれ。「友の会」会員、群馬大学教授、前橋市在住、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp)

前橋の初雪

(1997年1月5日)

初雪が降った。夜半になって、道路も、街路樹も、植え込みも、雪の綿帽子をかぶった。そこだけポッカリと街灯に照らし出された空間に、空から雪が絶え間なく落ちてきて、灯火の下で積もっている。「ワッ!雪だ。」。雪をみると、雪国育ちの身にとって、なぜか、気持ちがウキウキしてくる。

さっそくドアを開けて、夜の雪の世界を歩き回った。雪はなお、降り続いている。しばらくして、傘を持つ手に、降り積む雪の重さが伝わってきた。かなり重くなってきた。その感触に触発されて、故郷の冬の情景が思いだされてきた。登下校の傘を持つ手に、降り積む雪の重さは、幼いときには、これで結構重かった。越後の雪は、湿り気を含んでいるため、ぼたん雪のように、ボッタリと傘にへばりつき、いっこうに滑って落ちないからだった。傘は、放射状の骨組みを残して、布地が垂れ幕のように下に膨らんでくる。そうなると、頭部で傘を支えることになる。上州の前橋の雪も、故郷の越後の雪と同じだった。

故郷の越後から三国峠のこちら側に移り住んできて、はじめての冬は、とても温かだった。多分、いままで青森という北国の寒い地方に暮らしていたせいなのだろう。そういえば、引っ越してきた夏の暑さといったら、酷暑のことばにふさわしかった。ほぼ700キロも南下したわけだから、その気温差は、夏にそのままプラスされたわけだ。くわえて、湿度が高いわけだから、体感温度は、いっそう上昇し、久方ぶりの酷暑の夏になった。

そして、いま、雪のなかを歩いている。夜の雪は、とても幻想的だ。見上げるケヤキの大木の1本1本の枝に、雪がまといつき、街灯に照らし出されてその先端まで白く輝いている。夜空いっぱいに広がった白い大木は、歩道に立って見上げる僕を真上から包み込むように見下ろしている。広瀬川沿いのわずかな空間に残された植え込みや樹木は、四季折々に自然の移ろいを楽しませてくれる。

だが、今夜の雪景色は、飛びきり感動的だった。なぜだろう。ライトアップの効果なのだろうか。本来、夜は、暗くてなにもみえないはずなのに、そこに人工的に光を当てることで、隠されていたはずの自然の造形を人為的に切り取ってみせてくれたからなのだろうか。多分、そうかもしれない。ただ、雪国育ちで、雪の苦労をしてきた体験が底にあり、雪のつらさを十分知っている自分がいたのに、今夜の雪は、そんな苦労にまとう生活の中の雪ではなかったことも確かである。むしろ、雪国を離れて関東の地に移り住んで、生活とは異次元の美しいものを美しいと思う観賞の世界の雪景色だから、あるいはその分、気楽に感動できたのかもしれない。

ふるさとを後にして、ほぼ30年間の時間が流れ去ったことで、少年の頃の雪国の暮らしの辛さは、だんだん忘却の彼方に遠のいていってしまったのだろう。

夕 陽

(1995年12月3日)

北国の冬の日暮れはすぐやって来る。午後4時を過ぎれば、もう夕闇がうっすらとあたりをつつみこむ。ついさっきまで青空が広がっていたのに、一瞬にして真っ赤な夕陽の世界に変わる。そして、すぐに暗い影が、野山も街も人も、すべてを飲み込んでいく。暗い情熱にたぎる闇の力が、すべてを覆いつくすように。

一瞬の変化は、あざやかでもある。窓から外を見ていると、そこは、ちょうど真っ赤な夕陽の世界だった。窓の下からつづく耕された畑も、採り残され、しなびた野菜も、道路をはさんで、いまは放置されたままのかつての牧草地も、さらにその向こうの高台の住宅地も、みな真っ赤な夕陽につつみこまれていた。そしてすぐに、スポットライトの色が変わったように、暗い影につつまれた。薄い墨を流し込んだような色彩が広がってきた。夕陽によって照らしだされた色彩の変化は、目前の小春日和の穏やかなぬくもりの世界を、暗く、冬の寒さ厳しい世界に引き戻してしまった。北国の街に、凛とした寒気が立ち上がる。

家のなかで冬の寒さにつつまれながら、窓を通して遠方をみると、向こうの高台の街の、はるか上空に浮かぶ雲は、そこだけが別世界のように、赤い夕陽を一身に集め、赤く輝いている。その上には、まだ青い空が広がっていた。青い空と赤い雲が、冬の夕刻に、あざやかなコントラストをなしていた。

寒気が忍び寄ってきた部屋からみると、それは、天空に描かれた冬の絵画であった。わずかな瞬間を惜しむかのように、生命がぶつかりあい、火花を散らし、やがて闇につつまれる直前に、激しく燃焼しながら、青と赤の色彩をあたりに放つ生命力溢れる絵画だった。

しばらくすると、天空の冬の絵画も、まもなく姿を消した。あたりは夜のとばりにすっぽりつつまれた。夜の闇に浮かび上がってきたのは、高台の街の家々の窓の明かりだった。冬の夜の澄み切った空気をつらぬいて、きらめく星座のように、いくつとなく光をともす無数の小さな窓だった。白、黄色、緑、などの小さな明かりは、人々の生活の営みのたしかな証明にほかならないが、それらの無数の明かりは、寒空に逆らって、温かい光をともしつづけている。さきほどまで、あたり一面を照らしだしていた生命力に満ちた大きな真っ赤な太陽は、夕刻をさかいに、色とりどりの無数の小さな窓の明かりに席をゆずっていた。

ヤマボウシ

(1995年12月17日)

朝起きると、夜中に雪が降っていたようで、今朝は、20センチほど雪が積もっていた。窓越しにみえるヤマボウシも、紫式部も、根元は雪におおわれ、ひろげた枝だけが、真白な雪のジュータンのうえにくっきりと自分の存在を主張していた。初秋の頃に剪定しておいた枝振りは、それなりのバランスを保っていたので、ひとまず安心した。小さいながらも、4本のヤマボウシが並んでいる。5年間ほど鉢に植えたままだったため、成長は遅い。小さなヤマボウシだが、庭の土に移してから、しっかりと根を張ったようで、枝振りは4本とも元気だ。

4本のヤマボウシが、というより、いくつぶかのヤマボウシの種子が、わが家にやってきたのは、元号が昭和から平成にかわった年の秋のことだった。岩手大学での学会報告の帰途、ちょっと立ち寄った高速道路のサービスエリア付近に、紅葉したヤマボウシが、鈴なりの真っ赤な実をつけて、街路樹として、整然と列をなしていた。あまりにもあざやかな姿だったので、地に落ちた種子を拾い集め、タバコのパッケージから抜き取ったセロファンの袋に入れて、家まで持ち帰った。一晩ほど水につけておいてから、プランターに捲き、少し土をかぶせておいた。

すると、翌年になって、まったく期待していなかったが、小さな芽を出した。種子が発芽したのだった。10本ほどの黄緑色の芽が土のなかから、スクッと立ち上がってきたのだった。ベランダのプランターのなかで、しっかりした一歩を歩みだした。そうやって、ヤマボウシは、わが家にやってきた。

真夏に水やりを忘れたり、伸び放題の枝をそのまま放置しておいたりと、手入れを怠り、結局、何本かは枯らしてしまったが、いまでも、4本のヤマボウシは、今朝のような雪の中でも元気に育っている。小振りだが、大地にしっかりと根を張っている。

学会報告の帰途、高速道路のサービスエリアでの偶然の出会い以来、この4本のヤマボウシは、自分の青森県八戸市での歩みとともにある。平成元年(1989年)春に、北国八戸の大学に勤めることになったが、それは、ヤマボウシがわが家にやってきた年でもあるからだ。

鉢植えだった頃のヤマボウシも、庭に移植したヤマボウシも、よくながめてきた。小さな生命の営みを見つめることで、気持が集中し、時間のたつのも忘れることがしばしばあった。ただ漠然とながめていたこともある。あるときは、あまりの成長の早さに驚かされた。ウドン粉病に取りつかれて、緑の葉が白く染まるときは、さすがに胸がいたむ。何回か、薬も使ってみたのだが、効き目がないようだった。

長い間、植木鉢の中にいたせいか、成長不良でいまだ小さなままのヤマボウシである。でも、もう6年間もいっしょに暮らしてきたことになる。ウドン粉病に打ち勝って、もっと元気になり、スクスクと伸びてほしい。そして、ずーと待ちつづけているのだが、願わくば、小さなサッカーボールのようなあの真っ赤な実が、来年あたりにでもなってほしいものだ。

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